Text:Onnyk
<プロト・シアター>(新宿区高田馬場)にて開催されたイベントのレビュー。
「不図」と書いて「ふと」と読む。「図(はか)らずも」という意味になる。この変った名前の企画は、小山博人氏という或る人物の追悼のために計画された。こやまひろひと、と言ってすぐ思い出せる人は多くはないだろう。
享年58。還暦を前にして八王子の自宅での孤独死だった。死因は脳梗塞。最初の発症ではなかった。決して有名人ではないが、東京を中心として一部の前衛的、実験的な芸術活動に関わる人々には知られた名前だった。職業的芸術家でもなく、批評家として食べていたのでもない。しかし、あの小山が認めたと言えば「それはちょっとしたもんじゃないのか」と思わせるほどの鑑識眼を持っていた。
そして最後まで「あの人はなんだったのだろう」と、知人達に疑問符を浮かばせて往ってしまった。そんな不思議な人物です。2010年に亡くなってから、彼を追悼する企画は立ち上がったものの、立ち消えになったり、なかなか進展せず結局死後3年して実現に至った。小山博人追悼企画準備室は、縁の深かった新﨑博昭・入間川正美・遠藤寿彦・湯田康らの手によって運営され、「不図〜小山博人とは何ものだったのか」という名で開催された。これに参加したメンバーを列挙しておく。
荒井新一(パフォーマンス)、新崎博昭(小山氏と集団を組んでいた)、IZA(シンガー)、入間川正美(チェリスト)、海上宏美(批評)、遠藤寿彦(ダンス)、大熊ワタル(シカラムータ)、ONNYK(第五列)、GESO(第五列)、小林保夫(演劇)、鈴木健雄(サウンドパフォーマー)、竹田賢一(A-Musik)、多田正美(サウンドパフォーマー)、藤井博通(俳優)、morning landscape(演劇)、山田工務店(演劇ユニット)、湯田康(演劇)となっているが、全員参加したのか、私は今情報をもっていない。
また今回は小山氏の手になるテクストを集成し、友人、知人らが写真や追悼文を載せた小冊子が出版された。「7711 小山博人text」という百ページ弱のものである。さらにこの冊子には「不図(ふと)—そして歌は止んだ」というCDRが附属された。これには小山氏自身の朗読、環境音のリミックス、電子音作品、ライブ演奏の集成であり、わずかな録音しか残さなかった彼が、いかに緻密に構想された作品を残していたかが分かる。
冊子の追悼文には詳しく書いたが、私が 20歳の時から、小山氏には何度となく会い、共演もし、盛岡まで来てもらったこともある。そして実によく飲んだ。小山氏は毎年自ら観桜会を企画し、忘年会にも参加し、家には帰れなくなった酔漢を多数泊めるを苦にしない人だった。見かけこそ怜悧なのだが、実は非常に人好きの、ある意味宴会名人だったとも言える。
しかし、決して論争においては酔っていようが、素面だろうが、自説の展開には堅固な理論が敷設されていて、容易に論破できないという強者であった。また、そういう彼だから「これはなかなか見所があるぞ」と言ったら、その作品はいきなり株が上がる。それは上演でも本でもレコードでも同じだ。小山が褒めたとなれば一度は自分でも検分せずばなるまい。そんな気にさせる人だった。古い言い方なら「目利き」とでもなろうか。
しかし単に美的な意味での審美眼だけではなく、哲学、思想、批評を網羅した知識が、作品と作者の存在意義を、歴史的意味を、問題提起を伝えてくれるのである。だから彼は貸しレコード店全盛時代には、積極的に紹介文、推薦文を書いたし、入間川氏のソロにも文章を提供した。さらに図書館員として小石川の図書館に素晴らしく充実した音楽アーカイブを作った。
また、井澤賢隆氏によって「絶対演劇」と名付けられた先鋭的演劇運動へ積極的に介入し、コロック(討議、話し合い)では司会まで買って出た。独身の小山氏は早期退職してちょっと町から離れた所に一戸建てを買い、そこに彼の優れたアーカイブを常設し、誰でもこの家を好きに使ってくれという計画を持った。そしてそれがもう実現するという時に逝った。小山さんという人は最後まで、自分の考えを貫きながらも、人のために開放的な場を作ることを実践していたのだ。
ああ、ここまで書いてようやく件の追悼企画のレビューになる。さて、私もこの追悼企画には早くから賛同の意を表明したのだが、こんな長さで良いかと送ったものが「これ、そのまま使わせてください」と言われ、諸々の誤りも修正せず、冊子に掲載された。また入間川氏とのデュオをまたやりたいという気持もあり、ライブ演奏もした。私はテナーのマウスピースをつけたアルトサックスと、同じマウスピースをつけたフルート。私にとって共演者はそのままモチベーションなのだ。
その意味で、入間川氏は最高のモチベーション的存在である。チェロであってチェロではない、楽器であって楽器ではない、いやチェロという非楽器、チェロの形をした何かがそこにある。そこから生じるサウンドは、どこまでも非分節的な、そして断片でありながら連続した、離接的関係にある。
私はその隙間に私のサウンドをねじ込み、また、はじき出され、そしらぬ顔を決め込み、地に伏したり、天を仰いだり、徘徊したり、屹立したり、卒倒したり、絶叫したり、という想像を楽しむのだった。またクラリネットの名手、大熊氏が「僕の演奏中に割り込んできてください」というので、鈴木氏と一緒に乱入して楽しんでしまうという有様だった。
さて、27日だけの参加ではあったが、私の鑑賞した範囲のレビューをしておこう。ところで会場となったプロトシアターは、住宅街の真ん中にあるスタジオで、演劇集団D’AMの管理下にある。新崎博昭は小山氏との古くからの付き合いで、企画集団ともパフォーマンスグループともいえる「イヴェントアクシデント7711」を組んでいた。そして今回は映像と、自作小説の朗読で小山氏を偲んだ。
入間川正美のチェロについてはもう何も言葉が無い。言葉の無力を感じる。そのCDでテクストの冴えを見せた小山氏には感服する。海上宏美は、絶対演劇の一翼を担っていたが、現在は「一切の表現行為は害を為すだけ」という「引退宣言」を攻撃的に発信している。生前から、表現行為の不毛さには敏感だった小山氏とは相通ずるものがあっただろう。
遠藤寿彦はダンス「回路派」という、ITテクノロジーを妙にアナログなスタイルへと転換するような動きを見せている。彼のパフォーマンスは実に細部まで考えられており、しっかりと上演されていた。しかし、一体ダンスとはなんだろう。ダンスは体を使った演奏なのだろうか。それがITとコネクトしたものは何か。IT=それ、である。そしてドイツ語ではEs=エスだ。ああ、書きすぎてしまいそうだ。彼の舞踏は言葉と無意識を誘惑する。
大熊ワタルといえば、そのバンド「シカラムータ」であるが、今回はクラリネットソロに加えて新聞紙を足で引きちぎりながら激しく動き回った。GESOは、小山氏が「第五列テープ」というカセットシリーズに残した作品「Man
Machine II」の作品構造が本当に実践されていたのかを、その場で参加者の前に開陳し、改めて小山氏の周到さが知れた。
鈴木健雄は、知る人ぞ知るサウンドパフォーマーであり、ホーミーの名手である。彼は小型カセットレコーダーというもはや入手しにくいアナログ機器を二台用いて、目で見えるディレイ効果を作品化した。うがった見方をすれば「遅れて」開催された追悼企画を象徴しているのかもしれないが、さらに考えれば「追悼」とは後悔のように、常に遅れてくるものだ。生前葬はあっても生前に追悼されることはなかろう。
竹田賢一といえば、革命の余興を目指す旅団(バンド)「A-Musik」のリーダーにして電気大正琴なるハイブリッド邦楽器の奏者として並ぶものなき存在だが、小山氏追悼という場においては重鎮的な存在感があった。
多田正美は、かつて存在したGAPという音楽集団のメンバーで、さらに伝説的即興演奏集団「イーストバイオニックシンフォニア」、その発展的グループの「マージナルコンソート」の一員である。彼は様々な自作楽器をこなすが、それは電子的な物だけでなく、あたかも伝承的な呪具のようなオブジェも用いて極めて身体的なサウンドパフォーマンスを見せる。今回の企画中、最も感銘深かった。
「山田工務店」という奇妙な名前の演劇ユニットは、非常に印象的であった。音楽も構成も実に無機的で良かったが、ある役者が出てきて演技を開始したとたんに幻滅した、いや現実から幻へ連れ戻された。私の見ていたのは上演だった!(と気付かせられた)。彼女は美人で演技力があることによって損をしていた。そういう類の女優は何度も見た。俳優でさえなければ良かった。こういう人たちは、俳優は見られる存在であり見られるにたる美を有していなければならないと信じ、努力の結果、彼らがそう思いこんだところに達する。しかしそれは一種のニッチ(陥穽)なのだ。
真の俳優は、見られる者という役割を果たすのではなく、見る者をして、見るということが見えるようにし、その瞬間に存在を消してしまい、そんな役者などどこにもいなかったという様になってしまう、すなわち「何かが何かであるように見える機能」そのものなのだ。だから全く俳優に見えないその集団のリーダーの普通さ(衣装、動き、演出)に惹かれた。どう見ても大工さんである。
この集団の名前が「山田工務店」というのは実によい。その意味であの可愛い女優がいることが、上演を「作業」ではなく「演劇」にしている。おかしな関係だ。まあ、その対照的な二者がいたことが私にそれを気付かせたのだから、もし彼らがそういう狙いを持っていたなら恐ろしいほど私は彼らの意図に「射ぬかれた」ことになろう。
さて、一体私は自分の活動の何に、どこに重きをおいているんだろう。私の演奏の内実のなさを考えると情けなくなる。純粋抽象か、サウンドデザインか。それを一人芝居か他流試合でやろうというのか?そんなことに意味があるか?それより何か歌を一つ残すことが大事ではないか?亡くなった小山氏はディレッタントとして自他共に認める存在だったが、曲や録音は構成的にしっかりしていたと改めて感じた。
しかしそれ以上に感じたのは、彼が結び合わせた人達の存在である。この企画が終わった瞬間から、参加者らはまた自分の活動領域、行動範囲へと戻って行く。そしてそのほとんどは連携してはいない。小山博人という一つの名でそこに花を手向けに来ただけだ。誰も「小山博人とはなんだったのか」という問いに積極的には答えない。「彼は彼だ」とトートロジーの堅固さが残るだけだ。
一曲でも歌を遺せばいい、などとはいわないが、何が存在意義を思い起こすよすがになるだろうか、いや存在など空無に帰してこそいいならば、よすがなど幽霊でしかない。それでも私はかっこいい亡霊たらんと努力するのか?世の中は亡霊で満ちあふれている。
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