2016年7月31日日曜日

ニューナンブ(15) 「私とマイナー 1」

Text:Onnyk



  この文章を読んでいる人の殆どは来れなかったと思うけど、今年(2016)の5月29日、吉祥寺の「ピコピコカフェ」で、Deadstock Records主催のイベントがあった。それは「日本のエクストリーム・ミュージックを聴く ~終わらない吉祥寺マイナー&第五列~」というタイトルで、78年から80年まで吉祥寺に存在した「マイナー」という店での未発表ライブ録音を主に聴いてみようという内容だった。私、Onnykと、GESO、そして園田佐登志の三人が、マイナーでの音源を持ち寄り、当時のチラシや、ミニコミ類を公開した。

私とGESOは、第五列の名で活動し、最近もボックスセットをリリースした。園田氏は、70年代後半に東京各所で「フリーミュージックスペース」という連続的な、多様な出演者によるコンサートを主催していた、そして現在も貴重な録音をリリースしている。会場には山崎春美氏も来て、録音によっては追加情報を語ってもらったり、あっという間の4時間だった。今回のイベントの状況を改めてここでレポートするつもりはない。むしろここでは、そのとき語れなかった所感を表明するだけだ。

第五列やらと名乗り、私と友人達が活動を始めたのが76年頃。マイナーが開業したのが79年。日本では闘争的な音楽の時代は過渡期だったと言えようか。パンクやテクノが流行り、それぞれが地域的、人脈的、スタイル的に分派していった。インディーズと呼ばれる自主レーベルも雨後の筍状態だった(紋切り型だな)。日本では、60年代にモダンジャズが流行し、その後半からフリージャズが起こってきた。それを自らのスタイルとして、反体制を主張し、過激なサウンドを信条とするミュージシャンの一群があった。要するにエンタテインメントには見向きせずということだ。

高柳昌行がその典型だったと思う。彼の場合はルサンチマンを糧に表現していたといってもいいだろう。また60年代はヒッピイズムを掲げた快楽主義的なロックも、マスメディアの提供する、より快楽的な新スタイル(まあアイドル的な売り方といっていい)には質、量ともに敵わず、70年代に入って、コマーシャリズムに乗るか、アンダーグラウンドで生き延びるかしていた。

前者にモップスあたりを挙げ、後者に内田裕也あたりを充ててみようか。また、こうした流れとはまた別に前衛、実験音楽の潮流はどうだったか。70年大阪万博に、その仇花は咲きに咲いたが、満開の後は先細り。彼ら60年代前衛は、アカデミズムを基盤とした作曲家たち(代表として武満、黛、一柳らをあげておこう)の世界だった。これに対して新左翼的な意識を持つ、アンチアカデミズムの音楽家達が現れた。先鋭的な音楽集団を組織し、最も過激な言動をしていたと周囲から証言されるエリート、坂本龍一は「学習団」という組織をつくった。

これは音楽のみに関わる事なく、非音楽家でもある、多様な表現者を巻き込んだ組織だった。おそらくこれは英国のコーネリアス・カーデューらによる「スクラッチ・オーケストラ」に触発されたものだろう。先頃初の評論集「地表に蠢く音楽ども」を上梓した、論客にして大正琴演奏家の竹田賢一らが、80年代に編集発行した「同時代音楽」という雑誌には、「学習団」のテーゼ、プロパガンダ、方法論などが提示されている。そのテクストでは過激な徹底抗戦的な坂本の姿が垣間みられる。しかし、YMOの成功と同時に、坂本は完全に路線を乗り換えた。

マイナーへの出演が多かった竹田賢一は、YMO以前の坂本の僚友として当時を記憶している。坂本と、打楽器奏者、土取利之の共演、名盤として知られる「ディスアポイントメント波照間」をプロデュースしたのも竹田氏である(土取は、日本で近藤等則らと演奏していたが、フリージャズドラミングの祖の一人、ミルフォードグレイヴスに師事し渡米、また世界中の打楽器を学ぶ旅にでた。後にピーターブルックカンパニーの音楽監督として活躍、帰国後は縄文文化を基盤として演奏、研究、作曲、録音を行い、後に桃山流三味線奏者、桃山晴衣とは彼女の死去まで共同作業も継続した)。また、竹田、坂本と共闘していた後藤美孝は、トリオレコード傘下に、ユニークなレーベル「PASS」を設立し、当時人気の高かったバンド「アーントサリー」のリーダーPHEWと坂本のコラボレーションを実現した。

70年代晩期から80年代への転換期、PHEWは、同じく関西で注目され出したINUの町田町蔵(後の町田康)らとともに、一種のオピニオンリーダーとして各種メディアに登場した。 かつての共産党員、運動家にして作家、詩人、そして大資本の御曹司である堤清二(=辻井喬)は、西武流通グループ、セゾングループのリーダーとなり、パルコに代表される「若者文化」を演出していった。西武の戦略に誰も彼もがどこかで関わり、意図的、あるいは無意識にのっていった。ケージのネクタイを切ったナムジュンパイクも、「資本主義は もうすぐ終わる」と大見得を切ったヨーゼフボイスも、みんな乗せられていた。反骨のアーティスト集団だった「フルクサス」の商品価値は高騰した。時代は、バブル経済に向かっていた。 

私事で恐縮だが、70年代中期、東北の片田舎で感じていた閉塞的状況のなかに、啓示のように「即興演奏〜フリーミュージック」が出現した。具体的に言えばデレクベイリーやハンベニンクのレコードとして。正直に言うのだが、私は誰かに薦められたり、間章のレビューを読んで買ったりしたのではない。これは偶然的遭遇ともいえる事件だった。彼らのスタイル(今や、そう言ってしまおう)、くどく言えば「非イディオマティックインプロヴィゼーション」の観念が私の中で成長した。それは極私的でもあったが、同時に、世界的にも「欧州に起こったフリージャズへの応答」として成長したと言えよう。


フリーミュージックは、「ジャズもロックも現代音楽も民俗音楽も対象化して、出自にこだわることなく、演奏者の意志で、また共演する者たちの信頼に基づいて展開すべき音楽」として考えられた。そう考えるしか無かった。そして私には「究極の音楽」と思われた。いや、そもそも それはミュージック〜音楽だったのか? そこには西欧流の個人主義と民主主義の基盤があったことは重要で、それが「米黒人の状況的闘争の音楽的表現としてのフリージャズ」や「その表面的なスタイルに感化された、日本的な、なしくずしの融和主義、日本幻想的な音響」とは確たる違いがある。日本のフリージャズを、決して卑小化する意味ではなく「フリージャズもどき」と言わなければならない理由はそこにある。

日本のフリージャズは人種差別や、公民権闘争、ジャズミュージシャンの使い捨て、被搾 取状況から生まれたのではない。また、黒人音楽の原点回帰的意識(それがある種の幻想であったとしても)から生まれたのでもない。日本のフリージャズは何より、スタイルとして受容されて行った。だから、フリージャズよりも、フリーミュージックは、欧州以上に日本の状況に見合っていたと言えるだろう。というのも欧州のフリーミュージック推進者達は、それを担ったかなりの者がジャズをクラシックを「学んで来た」、音楽を音楽として完成させることに真剣なミュージシャン達だからである。

「日本のジャズ演奏者だって真剣だ!」と言われるかもしれない。しかし、欧州のクラシック的素養に基づく管弦楽の演奏のレベルは、アマチュアでさえ、いやアマチュアレベルでこそ日本とは段違いなのだ。その意味では、日本のアマチュアの雑食性は、フリーミュージックの野放図さに合致していたように思う。しかし、西欧由来のフリーミュージックには個人主義と民主主義という、いわばエスニックな基盤があったという観点からすれば、日本に、ユーロセントリック的な個人主義と民主主義があったとは言えないだろう。何より、日本の経済状況は、世界の音楽文化をメディア化して消化吸収、流通させる事に長けていたのだ。いわば日本は世界の、通時的、共時的な音楽の坩堝と化していた。それが70年代後半であり、「マイナー」が生まれる背景だった。(続)。