2019年11月28日木曜日

à qui avec Gabriel インタビュー (1)

インタビュアー:堀 史昌


2019年5月23日。ある一曲がYoutubeにアップされた。
à qui avec Gabriel の「はらり ha-ra-ri」である。2年ほど前から自身のホームページの更新も途絶え、一体どうしているのかと気になっていたところに突然届けられた楽曲。それは彼女のイメージを大きく塗り替えるものであった。メイン楽器であるアコーディオンを一切使用せず、まるでドゥーワップを現代の日本でアップデートしたかのような、懐かしさと新しさが同居した音楽は、何度もリピートしたくなる中毒性に溢れていた。新たな魅力を備えたà qui avec Gabrielのことをもっと詳しく知りたい。そう思った私は彼女のルーツから、インタビューを始めた。


ーバイオグラフィーで「ミュージシャンà quiとアコーディオンのGabrielのユニット」とありますが、楽器を擬人化してユニット名の一部にするのは珍しいですね。このようなユニット名にしたのはどうしてでしょうか? 

 あまり深い意味はないんですけど、新しい名前でソロを始めようと思った時に、ある方がアイディアをくれまして「アコーディオンをガブリエルって呼んでるんだから『アキ(本名)とガブリエル』で良いんじゃないの」って。それで特に好きな人がたくさんいるフランスの言葉で語呂合わせして、à qui avec Gabrielってことになりました。ガブリエルっていうのは大天使にちなんだ名前ですけど、擬人化したわけじゃなくて、最初はコワい印象だった自分の楽器に名前をつけて仲良くなろうとしたって感じです。


ーà qui avec Gabrielという名前は、ユニークで素敵なネーミングなので昔から気になっていました。
 
 ありがとうございます。この名前にイラっとくる人もいるみたいですけど(笑)

ーアコーディオンが怖いというのは、それはどういう経緯でそのように感じるようになったのでしょう?

 まずはその大きさですよね。何しろデカいんですよ。楽器屋さんから連れて帰る時すでに「失敗した?」って思ったんですよね。ものすご〜く重くて(笑) 10kgあるんですけど、ヨロヨロしながら御茶ノ水の駅にたどり着いて、この先どうやって持ち運ぼう?...って、暗い気持ちで電車を待ったのを覚えています。あとから持ち運びのコツがわかって一安心っていうアホ丸出しな話ですけど(苦笑)。音を出すのでも、楽器が大きいので最初は蛇腹をうまく動かせなくて。楽器の方が意志を持って伸び縮みしてるみたいになっちゃって、まるで楽器を弾かされてるみたいでした(笑) だから謎の生き物みたいな感じがしてコワかったのかもしれません。もっと小さいアコーディオンを選んでいたらそんな風には思わなかったかもしれませんけど。

ーなるほど、アコーディオン演奏というのは、何というか見ている側からすると優雅な印象があるのですが、そういった苦労があったのですね。

 苦労というのとは違いますけど、優雅とは程遠いですよ(笑) 

ーでも、未だに演奏を続けていらっしゃるということは、そこでアコーディオンを選んだことはやはり縁というか運命だったのでしょうね。

そうですね。楽器との縁みたいなものは感じています。

ー大学の時に民族音楽のサークルに所属していたとのことですが、そこではどういった活動をされていたのですか?

 シタールとタブラを習いに行ってたんですけど、その場所がインド音楽だけじゃなくて、いろいろな国の音楽を民族楽器で演奏する活動をやってたので、参加するようになりました。民族衣装を着たり、エスニックフードを作ったり、今思えばかなりマニアックな世界だったと思いますが、アコーディオンにもそこで出逢いました。一番最初にアコーディオンで演奏したのはエジプトの歌謡曲だったと思います。


ー衣装や食事にまでこだわるなんて相当民族音楽にハマっていたのですね。

当時の自分は相当オカシナことになっていたと思います(苦笑)

ー「アコーディオンパンク」を自称されていますが、アコーディオンを始める以前はパンクを聴いていたのですか?

 「アコーディオンパンク」っていうのは、ジャンルの話じゃなくて、どこの誰だかわからない私のためのキャッチコピーです。「皆さんが想像するアコーディオンとは違う感じですよ〜」ってことでしょうか。よく一緒にイベントをやっていたmidoriyamaさんが「アコーディオンパンカーのアキさん」というふうに紹介してくれたことがあって…いただきましたっ!(笑) 最近はアコーディオン以外のこともやるのでこのコピーは使わなくなってしまいましたけど。

ーなるほど、そういう由来だったのですね。確かに、そういったキャッチコピーがあると普通のアコーディオン奏者ではないな、ということがよく分かりますよね。

 アコーディオンっていう楽器が持つイメージはある意味強力なので、有難いキャッチコピーでした。

ーでは、アキさんは元々どういった所から音楽にハマり始めたのでしょうか?民族音楽以前にはどのような音楽を聴いていたのですか?


 子供の頃、父親がよくレコードをかけてくれて、ハリー・ベラフォンテとかトリオ・ロス・パンチョスとか。それで「私もレコードが欲しい」ってなって。初めて買ってもらったのはフィンガー5の『個人授業』でした。子供心にもイントロのギターにシビれてましたね。当時はギターの音だっていうのもわからなかったんですけど(笑) この頃はテレビで見る歌謡曲が一番強烈だったかもしれません。

 中学になって、地元のロックバンドを好きになって、彼らがザ・フーをカバーしてたので、そこから所謂洋楽を聴くようになりました。高校生になってからは学校でまわってくる和物のレコードもよく聴いてました。フツーのポップスから、戸川純とかゼルダみたいな当時流行っていたものとか、なんでもこだわりなく聴いていましたが、自ら探していろいろ聴くようになったのは東京に移り住んでからです。

 「民族音楽以前に何を聴いていたか」って言われるとこんな感じのユルさですが、「元々どういった所から音楽にハマり始めたのか」っていうご質問の答としては、前出の好きになった地元のロックバンドの存在が大きかったと思います。今聴くと恥ずかしくなるぐらいなんてことないバンドですけど、演奏がものすごく不思議に見えたんですよ。初めて体感するエレクトリックの音のデカさもあったと思いますけど、音が彼らの身体の中に入って動いていて、さらにその音がまた彼らの動きによって身体の外へ出て行くように見えたんですよね。それで「あんなことやりたい!」って思って、高3の時にギャルバン、今でいうガールズバンドを結成してライブをやったりしました。ものすごい下手クソでしたけど(笑)


ー以前はロック系のものを中心に聞いていたのですね。ライブを見たことによって音が視覚化されてきたということですが、そういった体験が後にアコーディオンという楽器を選ぶということに繋がってはいないですか?

 音が視覚化されたというか、音と動きの関わりが見えたような気がしただけなんですけど、そういう理由でアコーディオンを選んだ意識はなかったですね。たまたま鍵盤が弾けて、民族音楽が好きでなんとなくアコーディオンを選んだように思います。でも確かに堀さんがおっしゃるような話にした方がそれらしい話になりますね(笑)

ーまた、アキさんが参加していたギャルバンというのは音楽的にはどういった感じだったのでしょうか。音源が残っていたらぜひ聴いてみたいですね。
 
録音がないか探したんですけど見つからなくて…。でも見つからなくて幸いってぐらい音楽的に語れるものは何もなかったと思います。「とにかく何かやりたい!」って勢いだけの寄せ集めバンドだったので、ドラムの子がメタルのドラムしか叩けなくて、何をやってもメタル調になってしまって(笑) それに、ボーカルの子が普通に歌わずに謎のパフォーマンスを繰り広げていたので、混沌としたコミックバンド状態でした。その感じのままいきなりヤマハのコンテストに出て準決勝まで行ったんですよ。完全に色物枠だったと思いますけど(苦笑) 

ーヤバくないですか、そのバンド。ちなみに、グループ名は何と言うのですか?


バンド名は「受付嬢バンド」(笑) とにかく全員、人に合わせようって気がなかったというか、技術的にも合わせられなかったので、自由にやろうってことで「何やっても良いんだ!」って感じにあふれていて楽しかったですね。

ーさて、民族音楽のサークルでアコーディオンに出会ってから、デビューアルバムの「うつほ」がリリースされるまでにはどのような活動をされていたのでしょうか?

 サークルをやめてしばらくして友達と路上で演奏を始めました。三味線と胡弓とアコーディオンで戦前の昭和歌謡をやったり、ギターとのデュオで古いジャズやミュゼットを演奏したり。そのうち薩摩琵琶とのユニットや十数人編成のラテンバンドに参加するようになって、曲をちゃんと演奏するっていう感じのことが多かったので、高校生の時のあの「何やっても良いんだ!」っていう自由な「バンド」をまたやりたくなったんですよね。それで何人かに声をかけてスタジオに入ってみたんですが、うまくいかなくて。じゃあまずはやりたい感じをソロでやってみようってことでデモテープを作ってTzadikに送ってみたという感じです。

ー活動の初期の頃から様々な楽器演奏者とライブをされてきたのですね。固定概念が無いというか、真の意味でのフリーミュージックという感じがします。楽器の組み合わせの自由さ、および多岐に渡るジャンルの音楽を演奏されてきたことに驚かされます。

 節操なく見えるだろうなと思ってたので、そんな風に言ってもらえてうれしいです。

ーTzadikにデモテープを送ったのはどういった理由からなのでしょうか?

 ジョン・ゾーンなら、誰にも相手にされないようなものでも一度は聴いてくれるんじゃないかと思ったんですよね。それで送ってみました。

ーなるほど確かに、ジョンゾーンはジャンル関係なく手広く手掛けているし、日本のアンダーグラウンドにも精通していますね。


 そういうジョンさんの背景からっていうよりは、とにかく一度は聴いてくれそうっていう勝手な思い込みが暴走した結果ですね(笑) でもこれは当たっていて、送られて来るデモテープは全て聴いているとのことでした。

ーまずデビューアルバムの内容の前にタイトルについてお聞きしたいのですが、「うつほ」を始め として、最新ナンバーの「はらり」であったり、あるいは「あわい」など古典文学に出てきそうな言葉を選んでますね。そういった文学をよく読まれていたのでしょうか?

 よく読んでいたと言えるかわかりませんけど、とても好きな世界ですね。日本の中世の物語を読んでいると自分が現実だと思っている世界からどこか違うところへ連れ出される感じがして好きなんです。物語の中に生きている人々は目に見える世界で目に見えないものを感じながら生きているんですよね。山川草木の中に八百万の神を見ていて、その感覚で自然と超自然の間をリアルに行き来しているようで惹き込まれます。

 アルバム『うつほ』も、そういう不思議な空気に満ちた『宇津保物語』からたくさんのイメージをもらっています。壮大な物語ですけど、不思議な成り立ちの琴(キン)とその秘技を親から子へ代々伝承していくといったお話です。

 ウツホっていうのは枝が折れたり雷に打たれたりして木にあいた空洞のことですけど、物語では大きな杉の木のウツホに籠って親から子へ琴の技や秘曲を伝授していきます。琴っていう楽器も中が空洞になっているし、アコーディオンも中が空洞になっています。登場人物もそれぞれ傷心から心に穴が空いて虚ろな感じがあったり。そういうウツホになっているところに何かがやってきて新しいものが生まれ出るようなイメージをこの物語からもらった感じです。

 日本の物語自体もそんな風に生まれてきた感じがあって、民俗学などではよくシャーマニックな成り立ちがあるって言われたりしています。シャーマニックとかいうとただのオカルトみたいになっちゃうのであんまり言いたくないんですけど、『宇津保物語』は人間と目に見えない何かとの共作みたいな感じがするんですよね。

 同じように「はらり」や「あわい」もイメージが広がる言葉で「花びらがはらりと散る」って言うだけで、散る状態そのものが既に「はらり」っていう音を持っているような響きがあったり、「間(ま)」っていう日本人特有の感覚や「間(あいだ)」を行くような感覚が「あわい」という一言に集約されていたりして面白いなと思って。日本の古典文学からは、そういった様々なイメージをもらっています。


ー「うつほ」という言葉にはそういう深い意味合いが込められているのですね。音楽とは本来シャーマニック、儀式的な面が強いし、危険なものでもあると思います。しかし、大量生産が基軸となっている資本主義における音楽の多くは、そういった要素が取り除かれてしまっている。だから、ほとんどの人はそういった本質的なことに気づかないのだと思います。

 音楽に限ったことじゃなくて、古の人々と現代人とでは随分感覚が違っている気がします。逆に現代人に感じられて古の人には感じられないものもあると思うので、必ずしも否定的な話じゃないんですけど。何れにしても本来感じ取れるはずのものが感じとれないっていうのは、知らず知らずのうちに飼いならされてしまいそうで怖い気がします。

ー日本の古典文学に傾倒していると聞くと、何だか着物を着て、音楽までいかにも日本の伝統音楽的な表現になってしまうようなイメージがしますが、アキさんはそうではない。 「うつほ」でも、尺八を使ったりして東洋的な要素も含まれていますが、ジャズ、クラシック、アバンギャルドなど西洋的な要素もミックスさせて曲を作っていますね。この、いい意味での複雑さが「うつほ」の魅力の一つだと思うのですが、ご自身ではどのように感じますか?

 当時は古典文学の系譜に連なれるとしたら自分ならどう継承するか?みたいなことを考えてた気がします。『うつほ』に関しては自分ではむしろ単純なものだと思ってます。何かをミックスさせているつもりはなくて、特定のジャンルを意識したりはしていないですね。

ーなるほど古典文学の系譜に連なるという発想だった訳ですね。

 なんだか偉そうに聞こえるかもしれませんが「自分がその系譜に連なれるとしたら、どんなことができるかなぁ?」みたいな発想です。『言霊の天地』っていう中上健次と鎌田東二の対談本があって、前述の古典文学の成り立ちや日本人の感覚などについて語られているんですが、彼らには文章を書く人としての危惧があって「古典文学の系譜に連なる人が少ない」ってことを嘆いているんですね。この本を読んだのは20年ぐらい前ですけど「日本人がものを作るプロセスみたいなことがわかりやすい形で残っているのが古典文学で、音楽でも舞でも日本人はそうやってるよなぁ」って思ったんですね。自分も何かを作る時「これはどこからやってきたんだろう?」っていう感覚があって。だからすごく惹きつけられたんだと思います。

ー創造のプロセスというのは、前の発言にあったような「シャーマニック」なプロセスのことですか?

 ヒラタクイエバそういうことになりますね。シャーマニックっていうと特別な能力みたいな感じがするのであまり使いたい言葉ではないんですけど、人間なら誰もが持っている感覚だと思います。

ー「はらり」についてはまた後ほど触れさせて頂きたいと思いますが、やはり、古典文学から大きなインスピレーションを受けているのですね。いつ頃から慣れ親しんできたのでしょうか?

 中学の時からです。授業そっちのけで教科書を読み進めていました。日栄社の古文のシリーズなんていうのもあって、読んでいると漆黒の闇が広がったりするんですよ。参考書なのに(笑)  それと小学生の時に、宮沢賢治の詩や物語に出会ったのも大きかったかもしれません。古文ではありませんが、賢治の創造のプロセスは古典文学の成り立ちを思わせるものだったそうです。

ー「間」という概念も中々、西洋人には理解し難い概念ですよね。日本が「状況から察する」「空気を読む」ことに長けた、いわゆるハイコンテクストな文化だからこそ生まれた概念なのかもしれません。

 西洋でも東洋でも目に見えないものに対する感覚はあると思いますけど、 日本人に特有の感覚っていうのは確かにありますよね。

ー確かに一神教の西洋やイスラムとは世界観が違いますよね。ハイコンテクストであることが、あいまいさを嫌うビジネスの世界では不利に働くかもしれませんが、アートや音楽ではそれがユニークさを生み出す源泉になっているのではないでしょうか。

 日本のアンダーグラウンドシーンが面白がられているのはそういったことも大きいのかなと感じています。

ー日本のアンダーグラウンド/ノイズシーンは本当に特有ですよね。 「どうやってあんな音出してるの?」なんて海外から言われるぐらいですから(笑)。

 その「どうやって音を出しているの?」っていうところがヒラタクイエバ...なところかなと。

ー頭で考えていては出せない音、論理を超越した音といったところでしょうか。楽器演奏の経験がほとんどない自分にとっては想像の域を出ませんが。

 そうですね。言葉にするのは難しいですけど、演奏してる本人も「えっ??」って思っちゃうような音ってことでしょうか(笑)

ー宮沢賢治は彼の詩集「春と修羅」がうつほの中のタイトルで使われていますね。この曲は賢治に捧げられたものですか?  


  詩集のタイトルにもなっている『春と修羅』という詩を音にする試みです。

ー言葉を音に変換する作業は難しそうに思えるのですが、実際はどうだったのでしょうか。

 言葉と言っても「詩」なので、イメージの力を借りてそれを音にするっていう感じです。



ーà qui avec Gabriel という名前でアルバム名を始め各曲のタイトルが日本語で、様々なタイプの音楽が詰まっている。その一筋縄ではいかない構成に「うつほ」のユニークさがあると思っています。

 そんな風に捉えることもできるんですね。自分としてはごく単純なものだと思いますけど、そのあたりは受け手の感性に負うところが大きいのではないかと思います。

ー「うつほ」はソロ名義ですが7名の方がゲストで参加していますね。制作のプロセスはどのように行われたのか教えてください。

 録音してミックスするだけなのでプロセスって言えるほどのものはないですけど、ゲストの方々はそれまでに知り合った人たちに声をかけさせてもらいました。

ー灰野敬二さんもゲストで参加されていますね。確か、別のインタビューでZenigevaのライブで灰野さんが出演していて、そこ知ったと聞きましたがそうなんですか?初めてライブを 観た時の印象を教えてください。

 はい。灰野さんと最初に会ったのはZENI GEVA企画のライブでした。 灰野さんはKK Nullさんと、田畑満さんがkirihitoの早川さんと、私は藤掛正隆さんとDoomの諸田コウさんと3人で演奏しました。灰野さんの演奏は、何かが炸裂しているような感じで、舞みたいだなぁと思った記憶があります。

ーそのライブから「うつほ」に灰野さんがゲスト演奏するまでの間、何か音楽的な親交はあったのでしょうか?

 一緒に演奏したりしたことはなかったですね。


ーうつほで灰野さんと共演したときの印象、エピソードを教えてもらえますか?

 「何にもできなかったなぁ」っていうのが私の正直な感想ですけど(苦笑) でも単純に「あ、もっと自由にやって良いんだ」みたいなことを感じさせてもらえましたね。

ーそれにしても、アキさん、藤掛さん、諸田さんのトリオという組み合わせも凄いですね。どんな演奏だったのでしょうか?

 私の提案でアフガニスタンの曲を1曲演奏しました。あとは即興をやったと思います。

ーアフガニスタンの曲というのは民族音楽的なものでしょうか?

 はい。民謡とポップスの中間みたいな曲だったと思います。

ーちなみに、「うつほ」のジャケットに写っている写真はどこで撮影したものでしょうか?何だか神秘的で、とても雰囲気がありますよね。

 原宿にある神社の森です。あそこは人工の森なんですよね。人工とは思えないほど鬱蒼としていて、特別な空気を感じる場所ですけど、大きくて見事なウツホの中に迎え入れてもらいました。


ーそうだったんですね。見事な大木なので、てっきりどこかの山の中で撮影したものかと思っていましたが。

 確かに山の中っぽく見えますよね。そんな風に見える森を人の手で作ることができて、そこがある種の聖地になっているっていうのはすごく面白いことだと思います。 (続)。

2018年3月23日金曜日

ニューナンブ(18) 音響彫刻家ハリー・ベルトイアのこと 前編

Text:Onnyk


私が今迄、やってきたいろんな事のうち、最も価値ある一つは、PSFレコードから、音響彫刻家ハリー・ベルトイアの演奏によるCDをリリースできた事です。

ニューヨークの怪物トリオ「ボルビトマグース」の、カセットでしかリリースされていなかったライブを、美川俊治くんの推薦でPSFから出す事になり、美川君が、嬉しい事に私をジャケットアーティストに指名してくれたのです。それで、無事それができたことで、プロデューサーの故生悦住さんに色々お話しする機会ができました。そして前々から考えていた、ベルトイアのCD化をお願いしたのです。

全部で11枚のLPになっていた録音の一部をお聴かせした所、「他でやってないなら是非うちで」と言われ、すぐ私はベルトイアの録音を管理していた、ハリーの息子さん、ヴァル氏に連絡を取りました。私がハリー・ベルトイアの事を知ったのは、カナダのレーベル、A.R.C Recordsという所で出した “the sound of sound sculpture”というLPを聴いたからです。


これは、あの脳波音楽で有名なデヴィッド・ローゼンブームのプロデュースによるもので、同レーベルでは彼の作品も幾つか出していますし、このレコードで音響彫刻に触れて演奏しているのも彼です。これは全部で6人の音響彫刻家の作品を収録しています。ベルトイアの音響は2トラック併せて3分も無かった。しかし、私には最も強烈な印象だったのです。ブックレットの写真も実に雰囲気が出ていた。また、そこには他にも録音がある事や、連絡先も書いてあった。

私がそれを買ったのは77年頃のことだったのですが、それから2、3年して思い切って手紙を書いた。するとすぐ返事が来た。息子ヴァル・ベルトイアからです。彼は、残念ながら父ハリーは既に亡くなっている事、作品と録音の管理、そしてレコードの販売 もしていることを書いてきました。大変残念ではありましたが、遺された11枚のレコードをすぐ買う事にしました。

しかし、これが大変でヴァルも海外へのレコード販売とか馴れていなかったものですから、手製のがっちりした木箱を作り(太い金属ネジで止めてあるような)、ちょっと大掛かりな荷物にしてしまったのです。勿論重い。で、それが税関で引っかかって、受け取るのに大変苦労した。その上、其のレコードたるや、決して良好とはいえなかった。ファクトリーシールをしているが、米盤にありがちな適当さで、盤もジャケットもろとも反りが入っている。盤質もいまいち。しかし録音はよかった。やはり全てのLPを聞くと、じっくりベルトイア作品の響き、そして特徴を考察する事ができたんです。

 特に意外だったのは逆回転でカッティングしてリバーストディレイのようになった幾つかのトラックがあったことでした。ヴァル氏には、内容の素晴らしさとともに盤の状態が悪い事も感想として書き送った。そしてもうひとつ考えたのは、枚数を少し買い取って日本で販売してみようということだった。彼は賛成してくれ、たしか全ての盤を揃えたセットでは2セット程度で、あとは私の選んだものを複数枚買い取りました。どこで話が聞こえたか、灰野敬二さんが是非欲しいとコンタクトをとってきました。勿論即ワンセット売りました。


私は音響彫刻という領域には前から関心があり、多分最初は70年大阪万博の鉄鋼館で出会った。つまりそこは電子音楽専門のコンサートホールだったのです が、そのホールへのアプローチに、音響彫刻の泰斗、フランソワとベルナールのバシェ兄弟の作品があり、水力で鳴っていた。また、即興演奏などに関心が深まってきてからは、自作楽器や、改造楽器、特殊奏法が大好きだった。あるいはまた、世界各地の民俗音楽に用いられる楽器や奏法にも興味があった。


しかし、あまりにも電子工学的な技術に依存したものはつまらなかった。どちらかというとアナログ、ロウテク、おバカ、お笑いな方向に向いていた。まあそうなると現代音楽の世界では、とんでもない演奏をやる連中には事欠かないですね。どうして、そんな音響に興味があるのか。それは簡単です。「変な音が好きだから」。では「変な音」とかどういうものか。そこが問題です。例えば、それは楽音ではない。西欧音楽の音律に従っていない、複雑な音響、つまりピッチが定めにくい。響きの中で変化する。意外な発生原理に依っている。

ここで確認したいのは「音響」といったとき、「音」と「響き」を分けて捉える意識です。例えばギターの弦を弾く。問題を単純化するために弦の振動そのものを「音」、それがボディに響いた音を「響き」とします(実際には弦そのものに既に音と響きがあるけど)。弦の音はそれほど大きく無い、しかしそれがボディに共鳴して増幅され、持続する。人の声も同じで、声帯の振動は単純なBUZZ音ですが、それは気管、咽頭、口腔、鼻腔、舌、口唇などで共鳴、あるいはある音域を弱め、あるいは鼻腔、口腔の複合的な反響を意図的に調製することで「声」として成立する。要するに「ひとまとまりとしてきこえてくる音」には、アタック音と、その共鳴音、減衰時の音があるということです。

「変な音」は「音」、つまりアタック部と、「響き」である共鳴や減衰が、それぞれに特異なんですね。音響分析をするとややこしいことになってる。それでは楽曲をやるのが難しい。つまり楽音にならないような音。分かりやすい例で言えば、ジョン・ケージの考え出した「プリペアド・ピアノ」でしょう。ピアノの弦の間にいろんなものを挟んで、鍵盤を弾くとなんだか混じったような、そして響きも短いような「変な音」がする。でも彼はこれで演奏する為の沢山の曲を書いた。だから、特殊奏法とか改造楽器とかは、前衛音楽、実験音楽によく用いられた訳で、そういうのが好きだったのです。

でもそういう分野を知る前から「変な音」が好きだったような気がするから、どっちが先か分からない。民俗音楽ではそういう音が沢山聴けるから其のせいかもしれない。まあ、プログレとかも結構新しい電子音や、変な楽器を使う傾向もありましたしね。あるいはテープ操作で「変な音」を沢山作った。ザッパなんてその最たるものでしょう。そんな訳で、「変な音」オンパレードの「音響彫刻」にはまるのは時間の問題でした。そして色々聴いてみた中で、一番凄いなと思ったのがハリー・ベルトイアだった訳です。(続)。

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2017年9月30日土曜日

ニューナンブ(17)「この世はあざなえる縄の如くにして」

Text:Onnyk


ご無沙汰しました。といっても読んでいる貴方の事を私は全然知らないんですけど。だからという訳でもないけど、今回は、人の繋がりとは実に妙なものだという話です。まあ今は何かと「発達障害、学習障害」とかいって病名つけて薬もらって、面倒な世の中になりました。あんまりそういう話題が無かった頃の話でもあります。いやそういうと語弊があるか?顕在化していなかった時代と いえばいいのかな。

私は、英国の即興演奏レーベル、INCUSレコードのファンでしたので、七〇年代の後半から聴いていたのです。そしてデレク・ベイリー、エヴァン・パーカー、トニー・オクスリー、バリー・ガイなどの強烈な演奏家達に混じって、ちょっと若手の変な連中がやっているのに気付いた。それは”TEA TIME” というレコードを聴いた時でした。そこでピアノを弾いていたのが、スティーヴ・ベレスフォードという人です。なんというか脱力的な、いい加減な、ユーモラスな演奏をしている。

即興演奏のひとつの要素として、ユーモアは、無理して作るのではなく自然に出て来るのが良いと思っていた。そのうち彼ら一派が独立してBEADなるレーベルを作ったのですが、これが実にそんな雰囲気があって良い。これはゴリゴリの演奏家達より共感できると感じた私は、早速彼らに第五列の演奏を編集したカセットを送りました。すると返事をくれたのがスティーヴ・ベレスフォードその人。見た目もすっとぼけた、うだつの上がらない学校の先生みたいなんですが。嬉しかったですね。

何度かやりとりしているうちに、彼も悪戯心満載の手紙とか、貴重な録音(例えば彼の家でベイリーとやったデュオとか)も聴かせてくれた。また、カセットには即興だけではなく、彼の好みのいろんなスタイルの音楽が入れてあり、それもまた楽しかった。そんなやり取りの中で、私がスティーヴに、「ゴジラ」のサントラをカセットで送った。これは喜ばれましたね。で、実は当時彼が大きく関わっていたのが、かの「フランク・チキンズ」だったのです。

これはホウキ・カズコ(法貴和子)さんとタグチ・カズミさんの日本人女性デュオで、嘘くさいニンジャのいでたちをして、パフォーマンスをしながら歌う?(歌ってるのかな)。伴奏は当時としては早くもカラオケです。今でもユーチューブで見れるでしょう。 其のサウンドを担当していた一人がスティーヴですが、他にも実はデヴィッド・カニンガム近辺の音楽家達が集まっていた。デヴィッド・カニンガムといってピンと来なければ「FLYING LIZARDS(フライングリザーズ)」 のプロデューサーです。あ、「ラウンジリザーズ」と間違えないで(あれも良かったですね、フェイクジャズとかいって、ジョン・ルーリー。アート・リンゼイなんかがやってた)。



フライングリザーズは、非楽器を沢山用いて低予算で、R&Bのカバー曲(「マネー」とか「ムーヴオンアップ」とかね)やってますよということで、 ヴァージンレコードから出したファーストが大ヒットしちゃった。スティーヴは、キーボード、エレキベース、ユーフォニウムなども演奏したし、 ダブがすきで、いろんなサウンドを混ぜてかなり音作りに関わっていたのです。

で、チキンズの30センチシングル「we are ninja」が出来て、私に贈ってくれました。そのA面の最後に、私の送ったカセットからとったゴジラの声と足音が使われていた。私は嬉しかったんだけど、「この音は著作権にひっかかるから、お金かかるか、使えないかになっちゃうよ」といったのです。が、杞憂だったようで、その後出た日本盤17センチ盤にもちゃんと入っていました。

ホウキさんは当時、クライブ・ベルという管楽器奏者かつ文筆家の奥さんでした。クライブはBEADに録音も残しています。クラムホルンという古楽器の演奏です。ホウキさんは、東大卒で英国に渡ったのですがどういう目的だったのかは知りません。多分、夫婦とも「ロンドン・ミュージシャンズ・ コレクティブ=LMC」にも関わっていたと思います。この組織の事は後で。また二人は音楽雑誌にも関わっていました。”MUSICS”という雑誌で、残念ながら私は1979年11月の最終号しか持っていません。英国のマイナーな音楽シーン、特に即興演奏、実験音楽などを広範囲に取材し、また海外の事情も伝えています。

その後、第五列とDEKUスタジオとピナコテカレコードの共同製作で、「なまこじょしこおせえ/売国心/INFECUNED INFECTION」という変なコンピレーションを作りましたが(最近CDで再発されてしまったのは作った側としても驚きです)、これにスティーヴと、やはりBEADの中心人物の一人 、デヴィッド・トゥープがデュオとして参加してくれたのです。まあこのコンピレーションのことを語るだけでも、話題満載なのでまた別の機会に。

で、トゥープとスティーヴは1982年頃から、”COLLUSION”という音楽雑誌を出していました。この雑誌は、世界的な視野でファンカデリックから タンゴ、カントリー、ヘビメタ、なんでもあり、各地の大衆音楽など紹介している。要はメジャーな売れ筋音楽ではないものを丁寧に拾い上げていたということ。トゥープが様々な民族音楽の研究をしていて、そんな記事も載せていた。

彼は、BEADからニューギニアやアマゾンの原住民の音楽を出していたのも呼応しています。その音源の一部がフライングリザーズの セカンドアルバムに使われたりしています。面白かった。ちょっと話は前後しますが、カニンガムのレーベル”PIANO”からは、THIS HEATの衝撃的ファーストアルバムほか出ていますし、この周辺の連中は、女子だけのニューウェーブバンドSLITSや、ニューウェーブのレーベルと して台頭していた”ROUGH TRADE”のSWELL MAPS, NEW AGE STEPPERS なんかにもからんでます。


クレジットされていなくても聴けば、ああ誰が やってるなと分かる。スティーブはダブ好きでしたから常連でしたね 。SLITSの日本語の曲「大地の歌」はホウキさんが手伝ったんじゃないかな。で、彼らと仲間だったベルさんも、90年代初頭から、”RESONANCE”という 雑誌の編集者になっていました。この雑誌はLMCが出版していたのです。 あるとき日本の音楽の特集となり、私に、日本の地方都市での活動を書いてくれという原稿依頼がきた。ホウキさんは「私が訳しますので原稿は日本語でいいですから」ということで依頼して来たから気軽に書いた。

96年あたりだったと思います。丁度、AMM初来日で、そのギタリスト、キース・ロウを盛岡に単独で招聘してライブやったのが95年で、その辺りの事も書いた。このライブ映像は、 第五列ボックスのDVDに収録しています。で、それから数年して私は東京のレーベルBISHOP RECORDSからリーダー 作を出すべく、録音をしました。そのメンバーでツアーをして、神戸にいったとき、ライブハウス「ビッグアップル」に私宛のメールが届いていた。そのことにびっくりしたのですが、英国にいた盛岡出身の女性カメラマンTさんが、いろんな検索をしていて、私の名前がひっかかったので、ビッグア ップルにメールしたと。で、「近々、長く渡欧していたが盛岡に帰るので会いましょう」となった。

Tさんと、一緒に来たのがポール・フッドという人で、ロンドンで豆腐を作 っているという。 盛岡は、豆腐消費量では日本で一、二を争う豆腐シティ。ということで盛岡 見物したわけです。彼は盛岡の豆腐に舌鼓をうち、また「ジャズ喫茶」という日本文化なども堪能した。彼はLMCのメンバーで、サンプラーでの演奏もしていた。さてLMCとは?あ んまり知りません。でも要するに、主としてアマチュアの、通常のスタイルの音楽ではない「即興演奏」を愛好する人達が作った組織で、少人数の ライブを、ちょこちょこやっていたり、年に一度は全体の大きな企画をやっているようです。

あと、私は彼らが作ったLPレコードを一枚だけもってます。これは演奏そのものよりもアイデアが面白いんですね。例えば、全く隔絶した場所にい る三人が、ラジオの時報を合図にお互いを想像しながら演奏し、それをあ とで合成したとか。まあ、結果はなんつうか緩いですが。TさんとポールはLMCのライブで知り合った。彼女は英国の前に欧州にいて 、メルスニュージャズフェスなども撮影していた。驚くべき事にサン・ラ・アーケストラに気に入れられて、その専属カメラマンにもなっていた。そして彼女はアーケストラの記録動画を撮影編集することを依頼されたり。それはまだ発表されていないようですけどね。

さて、TさんはLMCの関係者のライブを幾つか撮影してたのですが、それは面白かったです。ライブペインティングと即興の共演とか、スティーヴが テーブル上のオモチャ類だけ演奏してるライブとか。そして圧巻は、03年 のLMCのアニュアルコンサートなんですが、其の年のスペシャルゲストが3人いた。それが大友良英と、亡くなったサックス奏者ロル・コクスヒル、そしてキース・ロウだったのです。

総勢30人近いメンバーが、扇形のひな壇に並んで、中央にゲストがいる。詳細はよく分からないですが、ゲストそれぞれの指示で演奏が展開する。大友とロルは一緒のステージに出て、全体の中でロルがソロをとりながら 、大友の指示で楽器の種別になったりしながら音が出ているのですが、どうも渾沌としています。それが狙いなのでしょうか。しかしキースの場合は全然違い、最初にテクストを一斉に朗読する人達が中央にテーブルを囲んでいます。もしかしたらこれは、かつてAMMのメンバーで、共産党地区書記でもあった作曲家コーネリアス・カーデューの曲を やってるのかもしれないな。 これ以上のレビューをするとまた分量になりますので機会を改めて(前に一度別の所に書いたんですけどね)。でも演奏というよりパフォーマンスみたいな人達もあり、面白かった。何かをハンマーでたたき壊す人達とか、「ブトウ」をする人とか。

話を戻します。盛岡で、Tさん、ポールさんらと英国、欧州の音楽など楽しく談義。そして 共通の知り合いとしてクライブ・ベルの名前が出た。私は丁度製作していた リーダー作のライナーを誰に頼むかと悩んでいたのですが、もしかしてク ライブに頼めないかと聞いてみた。ポールは帰ったらすぐ聴いてみるといい、事実すぐポール経由でメールが繋がり、クライブに録音を送ったところ、ライナー執筆を快諾してくれました。

驚くべき事に、彼はその何年か前に日本に来ていたのです。そして、なんと岩手県も訪れていることが分かった。其の理由、実は彼は松尾芭蕉に興味があって「奥の細道」巡礼をしていたのです。勿論私はそのとき会っていません。ちょっと脱線しますが、岩手県北上市の出身で、非常にユニークな画家、 愛染徳美さんという方の話。 彼の絵も沢山載せた「わが隠し念仏」という本が「思想の科学」社から出ているんですが、実に面白い。皆さん、是非読んでください。で、どういう経緯か忘れたが、今、英国に住んでいて、ある図像の研究をしていた。これは教会の片隅の柱などに彫刻される「グリーンマン」という 存在です。この研究本を英国と日本で出した。これも面白いですよ。

まあこの人は絵も面白いんですが、文章も話も良い。日本と英国の文化交 流事業で、盛岡に来た時講演会を聴いたんですが、そのときの中身もよく 覚えています。それでひとつだけ紹介したい。 愛染さんが、ドーバーの壁にいったとき、かなり天候が荒れていた。周囲には観光客は誰もいないと思った。そこで海を眺めながら思わず「荒海や 〜」と叫んだそうです。すると後ろから「サドニヨコタウアマノガワ」と 声をかけられた!ぎょっとして振り向くと初老の英国人がニヤニヤしながら立っていたという。

英国人、芭蕉が好きなんですね。話を戻します。クライブのライナーを読んでちょっと困ったのは、彼は、私以外の演奏者8人は皆岩手の人だと思っていた。そういう誤解はあったのですが、文章はとても良かった。だからもう書き直しはしてもらわないで、それを付けて私のリーダー作”the unsaid”が出たには出た。

が、まだ問題は残っていたのです。それは折角の彼の名文が印刷の状態やフォントのせいで、相当に読みにくいものになってしまったんです。なんと 杜撰なと思わないでほしい。パソコン画面上では明瞭だったし、プリントだってしてみた。そこでゴーサインを出したんですが、本番は紙の質が違っていたり、インクの乗りも違っていたのです。ああ、私は今迄何度もCDやレコードを作ったんですが、どうもライナーや 文字情報についてはいつもトラブルがある。運命ですねえ。今回はこのくらいにしておきます。次回は、いかにしてPSFから音響彫刻家ハリー・ベルトイアのCDが出る事になったのかを書きます。

2016年9月8日木曜日

ニューナンブ(16) 「私とマイナー 2」

Text:Onnyk



  さて、当初フリージャズや、フリーミュージック傾向の音楽を聴けるジャズ喫茶として出発した「マイナー」が、フリーミュージックやそれに呼応するようなパフォーマンスの上演の場として生成変化するのに時間はかからなかった。敢えて言えば、2年半のうちに、そこに巻き起こったロマン主義、表現 主義の苛烈な「シュトルムウンドランク=疾風怒濤」が、その場自体も破壊し去ったようなものだ。しかし、ここに構成主義、超現実主義、ダダイスム、未来派は居なかった。それが現れたのは「マイナー」以降であり、「ピナコテカレコード」はその揺籃となったかもしれない。マイナーの店主、ピナコテカの社長、佐藤隆史本人の志向からすれば、彼は音楽に、もっと構成主義的かつロマン主義的なサウンドを求めていたと私は勝手に思うのである。第五列はさしずめチューリヒダダあたりかな。その詩的な源泉からして。 

魔窟、吉祥寺「マイナー」。その息吹はおそらくは後の明大前「モダーンミュージック」とそのレーベルであるPSFに受け継がれ、ライブの場としては「キッドアイラックホール」がその役割を担った。第五列は79年暮れにマイナーで企画した、自由参加型即興ワークショップ的コンサート「いみぷろゔぁいずど大晦日いゔ」を、同じメンバーによって十年後にキッドアイラックホールで行った。また佐藤=マイナーが、「マイナー通信〜アマルガム」を出していたように、モダーンミュージックは「Gモダーン」を刊行し続けた。「アマルガム」には書くチャンスがなかったのが残念だが、私は「Gモダーン」には連載とレビューを持つ事が出来た。これは店主、生悦住さんと、当初の発行編集をしていた田中さんの御陰である。盛岡という辺境(?)に住み、一度も東京に居を構えたことのない私が 、なぜマイナー、佐藤氏との交流が続いたか、またモダーンミュージックとの関わりが長かったか、これはまた別の機会に書く事にしよう。

ちなみに私はピナコテカで2枚のアルバム製作(PUNCANACHROCK / ANODE-CATHODE、「なまこじょしこおせえ/売国心/INFECUNED INFECTION」)に関わり、PSFではジャケットデザイン、解説などで2枚 のCD製作(SONAMIBIENT / HARRY BERTOIA, LIVE AT InROADS / BORBETOMAGUS)に関わった。インキャパシタンツの美川氏の推薦に感謝している。確かに、70年代から80年代はカセットテープの時代だった。自主レーベル、インディーズは次々にシングル盤、LPレコードを出し始めた。しかし、それは流通範囲が限定され、最大でも千枚程度だった。それでも現在の自主制作数よりは多いかもしれない。それはマーケットの細分化、矮小化を反映している。レコード製作は手間と金がかかる。だからピナコテカはそれを手作業でやろうとした。そしてそれは当事者に非常に労力を強いた。結局、経費は労働力なのだ。音楽以外の事で疲弊する代わりに金を払ってしまう方がいい、となってしまう。 

その意味ではカセットは実に手軽であり、内容的にも長時間の演奏を収録でき、編集もコピーも簡単だった。必要に応じて、フェードイン&アウトを始め様々な編集をアナログでやった。テープを切って繋ぐなどというのは普通で、裏返したり、ループを作ったりもした。第五列ボックスにはそういう録音も多数収録されている。郵送も簡単だった。インデクスカードや包装に凝る事も難しく無かった。そう、当時は郵便が重要だった。いまだから言うが、切手の上にヤマト糊を薄めて塗り、乾燥させてから投函する。相手もそれを分かっていて、封筒から切手部分を切り取って、水につけておけば、切手ははがれるし、消印も流れて消える。何度でも使えるのである。とはいえ3度も行き来した切手はぼろぼろになった。これは郵便のキセル行為だった。

電話でも面白い現象があった。時間を決めておいて同時に時報のダイアルにかけ、大声を出すと小さい音量だが相互の声が聞こえるのである。これが電話料金をうかせたかどうかは覚えていない。いずれ10時過ぎの深夜時間帯にかけあったことは覚えている。 マイナー周辺の連中では電報で呼び出したともいう。いずれケータイ、スマホの無かった時代に、我々はよく集まった。そういう意味では時間にルーズではなかったのだと思う。もしそれらがなくても、狼煙や飛脚でもとばして連絡を取り合っただろう。脇道にそれるが、戊辰戦争の時代、味方同士にせよ連絡を取り合うのは極めて困難だった。もし、ある情報があと少し早く届いていれば戦況は逆転したであろうとか、正確な情報が伝わらなかったからとか、情報の行き違いが状況悪化させたなどという話は、後になって多く伝わっている。当時の日本の情報伝達が、比較的早いとはいっても江戸と仙台の間では数日かかる。もし盛岡なら早くて一週間、日本海側ならもっとかもしれない。いや、実は70年代後半でも、盛岡と東京の郵便の流通には数日かかったのだ。

話を戻そう。先の吉祥寺ピコピコハウスでの、マイナー紹介企画においては、数多くのフライヤーをお見せした。その製作では、手書きの文字とイラスト、写真を貼りまぜ、モノクロコビーの安い店を探して教えあった。パソコンは無し、印刷は金がかかった。ダイレクトメールも出したが、当時、年賀状や暑中見舞いで流行った「プリントゴッコ」という 簡易的な、小型シルクスクリーンによって作った。一枚毎に微妙に差が 出るのも面白かった。最近のイベントのフライヤーは小さい。私のような老眼では裸眼で読めない。80年代までのフライヤーは大きかった。おかしな例えかもしれないが、なんだか世界が小さくなってしまったような気がする。

こうして、時代、メディア、方法論、状況を振り返って、どうしようというのか。いま、我々が何をしようとしているか、いかなる問題に直面しているかを問わねばならない(おお、紋切り型の典型)。と言って急に終わらせてしまう事もできるのだが、七〇年代には冷戦と核戦争の恐怖によって、今、テロリズムと環境問題によって世界の情勢を「演出」している力、金融経済、情報通信を牛耳る力が政治をコントロールしている、そのソフトファシズムのなかで、うろついている自分を俯瞰しているだけだ。「1984年」は今なのだ。坩堝、それはどろどろのカオスであり、そこに「アマルガム」が生成していた。

2016年7月31日日曜日

ニューナンブ(15) 「私とマイナー 1」

Text:Onnyk



  この文章を読んでいる人の殆どは来れなかったと思うけど、今年(2016)の5月29日、吉祥寺の「ピコピコカフェ」で、Deadstock Records主催のイベントがあった。それは「日本のエクストリーム・ミュージックを聴く ~終わらない吉祥寺マイナー&第五列~」というタイトルで、78年から80年まで吉祥寺に存在した「マイナー」という店での未発表ライブ録音を主に聴いてみようという内容だった。私、Onnykと、GESO、そして園田佐登志の三人が、マイナーでの音源を持ち寄り、当時のチラシや、ミニコミ類を公開した。

私とGESOは、第五列の名で活動し、最近もボックスセットをリリースした。園田氏は、70年代後半に東京各所で「フリーミュージックスペース」という連続的な、多様な出演者によるコンサートを主催していた、そして現在も貴重な録音をリリースしている。会場には山崎春美氏も来て、録音によっては追加情報を語ってもらったり、あっという間の4時間だった。今回のイベントの状況を改めてここでレポートするつもりはない。むしろここでは、そのとき語れなかった所感を表明するだけだ。

第五列やらと名乗り、私と友人達が活動を始めたのが76年頃。マイナーが開業したのが79年。日本では闘争的な音楽の時代は過渡期だったと言えようか。パンクやテクノが流行り、それぞれが地域的、人脈的、スタイル的に分派していった。インディーズと呼ばれる自主レーベルも雨後の筍状態だった(紋切り型だな)。日本では、60年代にモダンジャズが流行し、その後半からフリージャズが起こってきた。それを自らのスタイルとして、反体制を主張し、過激なサウンドを信条とするミュージシャンの一群があった。要するにエンタテインメントには見向きせずということだ。

高柳昌行がその典型だったと思う。彼の場合はルサンチマンを糧に表現していたといってもいいだろう。また60年代はヒッピイズムを掲げた快楽主義的なロックも、マスメディアの提供する、より快楽的な新スタイル(まあアイドル的な売り方といっていい)には質、量ともに敵わず、70年代に入って、コマーシャリズムに乗るか、アンダーグラウンドで生き延びるかしていた。

前者にモップスあたりを挙げ、後者に内田裕也あたりを充ててみようか。また、こうした流れとはまた別に前衛、実験音楽の潮流はどうだったか。70年大阪万博に、その仇花は咲きに咲いたが、満開の後は先細り。彼ら60年代前衛は、アカデミズムを基盤とした作曲家たち(代表として武満、黛、一柳らをあげておこう)の世界だった。これに対して新左翼的な意識を持つ、アンチアカデミズムの音楽家達が現れた。先鋭的な音楽集団を組織し、最も過激な言動をしていたと周囲から証言されるエリート、坂本龍一は「学習団」という組織をつくった。

これは音楽のみに関わる事なく、非音楽家でもある、多様な表現者を巻き込んだ組織だった。おそらくこれは英国のコーネリアス・カーデューらによる「スクラッチ・オーケストラ」に触発されたものだろう。先頃初の評論集「地表に蠢く音楽ども」を上梓した、論客にして大正琴演奏家の竹田賢一らが、80年代に編集発行した「同時代音楽」という雑誌には、「学習団」のテーゼ、プロパガンダ、方法論などが提示されている。そのテクストでは過激な徹底抗戦的な坂本の姿が垣間みられる。しかし、YMOの成功と同時に、坂本は完全に路線を乗り換えた。

マイナーへの出演が多かった竹田賢一は、YMO以前の坂本の僚友として当時を記憶している。坂本と、打楽器奏者、土取利之の共演、名盤として知られる「ディスアポイントメント波照間」をプロデュースしたのも竹田氏である(土取は、日本で近藤等則らと演奏していたが、フリージャズドラミングの祖の一人、ミルフォードグレイヴスに師事し渡米、また世界中の打楽器を学ぶ旅にでた。後にピーターブルックカンパニーの音楽監督として活躍、帰国後は縄文文化を基盤として演奏、研究、作曲、録音を行い、後に桃山流三味線奏者、桃山晴衣とは彼女の死去まで共同作業も継続した)。また、竹田、坂本と共闘していた後藤美孝は、トリオレコード傘下に、ユニークなレーベル「PASS」を設立し、当時人気の高かったバンド「アーントサリー」のリーダーPHEWと坂本のコラボレーションを実現した。

70年代晩期から80年代への転換期、PHEWは、同じく関西で注目され出したINUの町田町蔵(後の町田康)らとともに、一種のオピニオンリーダーとして各種メディアに登場した。 かつての共産党員、運動家にして作家、詩人、そして大資本の御曹司である堤清二(=辻井喬)は、西武流通グループ、セゾングループのリーダーとなり、パルコに代表される「若者文化」を演出していった。西武の戦略に誰も彼もがどこかで関わり、意図的、あるいは無意識にのっていった。ケージのネクタイを切ったナムジュンパイクも、「資本主義は もうすぐ終わる」と大見得を切ったヨーゼフボイスも、みんな乗せられていた。反骨のアーティスト集団だった「フルクサス」の商品価値は高騰した。時代は、バブル経済に向かっていた。 

私事で恐縮だが、70年代中期、東北の片田舎で感じていた閉塞的状況のなかに、啓示のように「即興演奏〜フリーミュージック」が出現した。具体的に言えばデレクベイリーやハンベニンクのレコードとして。正直に言うのだが、私は誰かに薦められたり、間章のレビューを読んで買ったりしたのではない。これは偶然的遭遇ともいえる事件だった。彼らのスタイル(今や、そう言ってしまおう)、くどく言えば「非イディオマティックインプロヴィゼーション」の観念が私の中で成長した。それは極私的でもあったが、同時に、世界的にも「欧州に起こったフリージャズへの応答」として成長したと言えよう。


フリーミュージックは、「ジャズもロックも現代音楽も民俗音楽も対象化して、出自にこだわることなく、演奏者の意志で、また共演する者たちの信頼に基づいて展開すべき音楽」として考えられた。そう考えるしか無かった。そして私には「究極の音楽」と思われた。いや、そもそも それはミュージック〜音楽だったのか? そこには西欧流の個人主義と民主主義の基盤があったことは重要で、それが「米黒人の状況的闘争の音楽的表現としてのフリージャズ」や「その表面的なスタイルに感化された、日本的な、なしくずしの融和主義、日本幻想的な音響」とは確たる違いがある。日本のフリージャズを、決して卑小化する意味ではなく「フリージャズもどき」と言わなければならない理由はそこにある。

日本のフリージャズは人種差別や、公民権闘争、ジャズミュージシャンの使い捨て、被搾 取状況から生まれたのではない。また、黒人音楽の原点回帰的意識(それがある種の幻想であったとしても)から生まれたのでもない。日本のフリージャズは何より、スタイルとして受容されて行った。だから、フリージャズよりも、フリーミュージックは、欧州以上に日本の状況に見合っていたと言えるだろう。というのも欧州のフリーミュージック推進者達は、それを担ったかなりの者がジャズをクラシックを「学んで来た」、音楽を音楽として完成させることに真剣なミュージシャン達だからである。

「日本のジャズ演奏者だって真剣だ!」と言われるかもしれない。しかし、欧州のクラシック的素養に基づく管弦楽の演奏のレベルは、アマチュアでさえ、いやアマチュアレベルでこそ日本とは段違いなのだ。その意味では、日本のアマチュアの雑食性は、フリーミュージックの野放図さに合致していたように思う。しかし、西欧由来のフリーミュージックには個人主義と民主主義という、いわばエスニックな基盤があったという観点からすれば、日本に、ユーロセントリック的な個人主義と民主主義があったとは言えないだろう。何より、日本の経済状況は、世界の音楽文化をメディア化して消化吸収、流通させる事に長けていたのだ。いわば日本は世界の、通時的、共時的な音楽の坩堝と化していた。それが70年代後半であり、「マイナー」が生まれる背景だった。(続)。