2013年10月5日土曜日

ニューナンブ (2)



Text:Onnyk


<第五列誕生前夜2>




  高橋昭八郎という人は、非常に話し好き、陽気、寛容、仕事好きな、そして現代芸術に関しては全般に、そして特に文学には広い知識を持っていた「前衛詩人」でした。

 交流範囲も広く、地元名士から全国の詩人、芸術家、そして海外の詩人達との交流(フルクサス関係や、オクタヴィオ・パス、ラウール・ハウスマンまで!)もありました。それもその筈、彼の重要な方法論のひとつは「メールアート」だったのです。

 今の人にはピンと来ないかもしれないけど、要するに郵便というシステムを使った芸術です。これはいろんな方法がある。例えば「郵送可能なものなら、何でもいいから作品展に送ってくれ。期間はいつからいつまで、場所はどこそこだ」というようにするものから、郵便物そのものが作品である場合もある。詩が一編書いてあってもいいし、言葉がひとつあるだけでもいいし、絵でも記号でも、あるいは指示が書いてある場合もある。例えば「このハガキを受け取った人は、何月何日何時何分何秒から何時何分何秒まで、これこれのことをしなさい」というような。または、大きな作品が分解されて世界各地の人に送られるとか。郵便でどれだけのものが送る事が可能か実験してる例もありました。あるコンセプトに基づいて、あるサイズのものを送ってもらうなんていうのもあった。


 企画者は、いかなる形であれ、その企画が終了すれば「こういうことをやった。参加者はこういう人達だった。展示風景の写真を同封する。協力に感謝します」とかいうことを記録して報告書、作品カタログを作る。そして参加者に送る。当然、そうした企画は連鎖していく。まあ今ならネットを通じてユビキタスな企画が可能でしょうね。しかし、それはあくまでデータを介した、一種の虚像ないしは関数ですよね。メールアートの、アナログで、物質的で、時間と場所を区切ってやることは全く違う印象をもたらしますよ。

 高橋昭八郎さんはそういうジャンル、運動の大物だったんですね。我々、その後、第五列として色々やっていく面々も随分参加しました。国際展にも、高橋さんの紹介で色々送ったりしました。イタリアのサレンコなんて人の企画は面白かったなあ。

 あ、そういえば、スロッビンググリッスルの、ジェネシス・ポリッジ(現在は女性ですね)はメールアートを盛んにやってましたね。COUMという組織をつくり、其の名前を使ってました。。彼のイニシャルであるGPOは「グレートブリテンポストオフィス」の意味にもかけているとかいう話でした。残念ながら彼がTGで音楽活動にシフトして以降、メールアートはやめたみたいだったので、彼とは繋がりませんでした。

 しかし、彼がTGの後、サイキックTVを始めたとき、その母体である「テンプル・オヴ・サイキック・ユース」は、ジム・ジョーンズとアレイスター・クロウリーとチャールズ・マンソンを足して混ぜたような組織でしたが、参加するには「汝の経血、または精液と、汝の欲望を書いて送れ」という、まあこれも一種のメールアートのようなことをしていましたね(違うか?)。

 あー、そういえばTGがようやく話題になってきたころ、丁度823年かな、TGの日本盤が出るという噂を聞きました。それは当時トリオレコードというのがあり、その傘下にあったPASSというレーベルが出すというのです。ここはフリクションやフュー(と坂本龍一)のレコードを出していました。その設立者、プロデューサーは後藤美孝さんという人でした。私はこの人に、竹田賢一さんを通じて紹介されました。竹田さんはそのレコード「20ファンク・ジャズ・グレイツ」の解説を書く事になっていたのです。

その直前、後藤さんは渡欧していて、ドイツでフューの新作を録音してきた。これはカンのメンバーや、名プロデューサー、コニー・プランクの全面協力があってできた名作。そして後藤さんはTGのメンバーにも会い、3枚目のLPの日本盤を出す契約を結んできたのです。そのプロモーションの一環として、日本各地でTGのライブの映像をビデオ上映する会を催した。私はそれに協力することになったんです。時代はパンクでしたが、私はパンクよりインダストリアル・サウンドに関心が向いていました。それは後にピナコテカとの関係につながるんですが、また書きます。



<盛岡なう>

  漫画家、菅野修は不思議な人物だ。作品を通じて想像する彼は、芥川龍之介のような鋭い容貌で、その文学的知識と文体(菅野は文章がうまいのだ)からすれば、古典に詳しい、極めて厳しい感じの人も思える。しかし、実際に会ってみると見事に裏切られるのだ。そして、ほっとしていると、もう一度それは裏切られる。やはり彼は特異な芸術家なのだ。

  菅野は、いろんな楽器をやってきた。彼と最初に会った頃はドラムとトランペットをやっていた。ドラムはセットではなく、あちこちから貰ってきたり、拾ってきた要素で構成されていた。シンバルもひん曲がったり、割れたりしていたし、金属製のちり取りを一部にしていたこともあった。いわば楽器自体がコラージュ。しかし彼が叩くとなんとなくそれっぽい音になる。

 トランペットはとにかくバリバリ吹いていた。が、全く我流。あと、エレキギターも弾いていたが、主にエレキベース代わりにしていた。多重録音して作ったというソロは、歌は無いが、かなりロックぽくてかっこ良かった。しかし、何度も同じパターンが出てくるので長く聴いていると見えてしまうのだ。

 80年代半ば、彼はビルの一室を借り、絵を描くためのスタジオにしていた。そしてそこに楽器を集め、また知人を集めて夜な夜なセッションを繰り返していたのだ。私もそういう場所を探して市内をうろついていたので、渡りに舟という感じで付き合いが始まった。私は当時ロックバンドをやっていたから、すぐ仲間を引き入れた。

 そんな連中が盛岡市内から十人以上も集まった。背景も思惑も様々だった。すると彼は24時間コンサートをやろうと言い出した。『音に立つ男たち』というタイトルである。しかし、会場がそんな長時間の貸し出しをできないと言い、朝9時から夜9時までの12時間コンサートになった。

 菅野の意気込みは大変なものであった。東京から自分の懇意にしているジャズミュージシャンを呼び、市内の腕の立つジャズメンを呼び集め、また自分のバンドを持つ私のような連中で、企画に賛同するようなちょっとおかしな連中の時間配分を決めた。

 ポスターは、盛岡市内の山の上の展望台に、参加者のうち十名ほどが、朝6時に集められ、全員半裸になって楽器をを持って立ち、後ろ向きで写真に撮られた。出来上がってみると、市街に向けて並んで立ち小便しているような構図だった。

 とにかく菅野は全てを自腹でまかなった。スタッフはPAから、照明から、受付から、その他裏方まで菅野の知り合いが総動員された。演奏者もスタッフも、菅野劇場の一部となった。コンサートは菅野の作品である。実を言えば、そのライブの様子はよく覚えていない。なんだかタイムテーブルがどんどん狂ってしまい、私のバンドもいつ初まっていつ終わったのか見えなかった。

 いつもステージに誰かいるので、勝手に参加されたりすると曲が壊れてしまうのだった。なんだか頭に来て途中でやめてしまったような。メンバーも皆そんな印象をもって、すぐ帰ってしまったと思う。そうしてずるずるとコンサートは続き、最後の方に全員がステージに上がり20人くらいでどんちゃかやったのだが、結局9時前にはネタが尽きて終わったように思う。9時までに搬出しなければならなかったから。打ち上げは無かった。

 菅野とやったライブで思い出が有るのは、16ミリ映画「山谷・やられたらやりかえせ」の上映と一緒にやったこと(右翼や警察がくるのではないかと対策を考えた)。映画音楽は、シカラムータとかやってた大熊亘らの一時的なバンド「蠱的態」だった。

 そして「蠱的態」にも参加してると思うけど、アメリカのチェロ奏者、故トム・コラとも盛岡に来て、菅野や私と即興でやった(トムは盛岡滞在中に私の家で映画用の編曲していた)。この時のライブは、まるで60年代後半のサイケデリックロックのライブで流行ったみたいな、ライトショウをする友達、佐々木君が参加した。

 全くコンピュータや、液晶プロジェクターなんかないからね。今のVJなんかとは全く違う予測できないような映像を壁に投射する。どうやるかは色々なんだけど、彼の場合は、昔よく発表に使ったオーバーヘッドプロジェクターの上に、浅い水槽を乗せて、その中にいろんな半透明のフィルムを置いたり、カラフルなインクを流したり。明るさはあまりないんですけど、不確定な変化が面白かった。アメリカの昔の様子を見ると蛍光インクやシリコンオイル使って、派手ですごいですね。ピンクフロイドなんかもやってたね。

 菅野とやった大物の一人は、FMP創設者のひとり、故ペーター・コヴァルト。このときはよかったなあ。副島輝人さんのメルスニュージャズフェスティヴァルの映画も上映した。
あと、私は共演しなかったが、灰野敬二ソロの前座も頼んだことがある。私はベルトイアの金属彫刻にエレキギターのマイクを付けて増幅した音を出した(ベルトイアは、私がPSFからCDを編集してリリースした)。灰野さんもベルトイアがお気に入りだったので、LP11枚組を売ったのがつきあい始めだった。

 トムとペーターとの共演はなかなか面白かったのだが、まだ一度も公開していない。其の理由は、とにかくワンセットが長かったということにある。これは菅野の特徴「とにかく長い」に引っ張られたのである。彼はソロであれ共演であれ、なかなか止めない。この辺で落ち着くかと思うと必ずそれを壊す。そしてぐいぐいと引っ張る。だれた状況に活を入れるという場合もあったし、まとまりかけたのを嫌がるというのもあったかもしれない(ちなみに私はすぐやめたがるほうです)。

 菅野の持つ即興演奏のイメージには、ひたすら集中して長時間やることで、何か意識が変成していくというのがあったかもしれない。

 ある日、菅野からはぷっつり連絡が途絶えた。この続きはまた後日。それまで、皆さん菅野修の単行本「筋子」を読んでおいてよ。すごいから。(続)


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