2014年5月12日月曜日

ニューナンブ (7)



Text:Onnyk

第五列前夜4

少し前回との重複を許していただきたい。話の流れが見えにくいから。

<マイナー周辺、80年前後>

19791225日だった(かな)。バイオリンとテナーサックスをひっさげて、盛岡発22時の夜行列車に乗り、8時間かけて東京へと向かい、朝に上野駅に着いた(当時、東北新幹線はまだ開通していなかった)。「第五列」は、マイナーにて「いむぷろゔぁいずど大晦日いゔ」なる企画を行った(同年1230日)。知人の即興演奏者達を20名ほど集め、組み合わせをかえて、ひたすら即興演奏をするというものだった。最後には吉祥寺商店街のアーケード内でも演奏しながら移動したが、誰も逮捕されずに済んだ。このときの録音も「第五列ボックス」に収録されている組み合わせで、即興アンサンブルをするというのは、デレクベイリーの始めた「カンパニー」という方法に影響されたものだ。選択された演奏者を、組み合わせや人数を替えながら、しかし絶対全員ではやらないというルールだった。

マイナーでも「ファクトリー」と名付けて同様の試みが不定期に続けられていた(名前にはウォーホルの影響も有るか)。河野優彦さん(tb)や近藤等則さん(tp)Treeなんていう集団もあったなあ(根茎である「リゾーム」に対抗していたのかな?)。多くの演奏家が、「バンドでも組織でもない。だから自由な即興で可能性が開けるんだ。フリージャズなんて死んだ」と言っていた。それに反発する人達も勿論いた(ニュージャズシンジケート、高柳一派、生活向上委員会など)。今となってはどちらも幻想であると思うが。

当時、東京のあちこちで参加フリーのセッションが繰り広げられていた。その有名な場所の一つが西荻「グッドマン」だった。店主の鎌田氏もサッックス奏者として活躍していた。私は79年の暮れ、ここでトランぺッター庄田次郎さんと初めて共演している。ギタリストの大木さん、そして文字通りに、世界をドラムをかついで回った野中悟空さん、誰か生活向上委員会の方も居た(話は変るが、なんと同じ名前の集団がいま活動しているようだが、どうやら梅津さんの作ったこの音楽集団とは接点がないみたいだ。新しいほうは演劇関連で盛んにやっている。誤解が生じ易いね)。


<ピナコテカ・レコード誕生>

毎夜、何かが生まれ、破壊される、そんな吉祥寺のカオス「マイナー」のオーナーである佐藤隆史氏は、後に「ピナコテカレコード」を設立して、日本のマイナー音楽シーンに大きな反響をもたらした。それは今になって評価されているだろう。ざっと思いつくまま書いてみよう(好き嫌いは別にして)。



暗黒大陸じゃがたら、グランギニョル、アノード/カソード、コクシネル、タコ(ジャケットの絵は花輪和一だった)、「愛欲人民十時劇場」(後述するオムニバス)、「わたしだけ?」(灰野敬二の初のソロ)、NORD、「ピヨピヨ」(芳賀隆夫サックスソロ)等々。出ないままに終わったものも沢山有る。
佐藤氏は全てのアルバムのジャケットに、何か新機軸をうちだした。手作りシルクスクリーン、三角形、関係ないレコードをおまけに入れる等々。佐藤さんはそれらをなんとか新案特許とかにしたかったそうだどうなったか(特許ってとるまでにもお金かかるしね)。とにかくお金がなかったから、佐藤氏はマスタリング用のオープンリールテープも放送局が音を消して放出したのを使っていた。

これが問題になった事件もある。ジャケットを手作りでというのも、自分で紙を折りなが
ら手作りしたのも、全部経費節減のためである。しかしそれでも売り上げが回収できなけ
れば意味が無い。レーベルを作るのは簡単だが、運営するのは至難の業だ。


<マイナーの終焉>

「マイナー」には、フリージャズ関係だけでなく、即興演奏、現代音楽の演奏者が集まり出し、なぜかパンクシーンからもはじき出されたような過激なロックミュージシャン、舞踏、演劇関係、怪しげなパフォーマンス集団などが集まったことは書いた。

ジャパンフルクサス、ギャルリーメルデ、その他なんだかわからない人達。「鶏事件」というのがあった。佐藤氏は半年に一度くらい、店内を改装していた。あるとき、床から30センチ程の高さにステージを作った。誰かがパフォーマンスで使った鶏(どうする予定だったのかわからない)が、逃げてそのステージの下に住み込んでしまった。何日か後、さんざん苦労して鶏を捕らえたが、卵を生んでいた。その卵は半透明で、ふにゃふにゃなものだったという。その話を聴いたとき、これって土方巽がステージで鶏を殺した作品「禁色」と逆みたいだなあと思ったものだ。

結局、雑居ビルに入っていた「マイナー」は、騒音や、怪しげな人物の出入りで周囲の苦情が高まり、あるいはコワイお兄さん達にすごまれて、撤退を余儀なくされた。その直前から佐藤氏は独自レーベルを設立せんと計画しており、店で演奏する連中の録音を編集した。そうやって80年に出来た「愛欲人民十時劇場」というLPはとんでもない代物だった。

  
<愛欲人民集結>


参加メンバーは、白石民夫、佐藤隆史/ヤタスミ/石渡明廣/篠田昌巳、ハネムーンズ(カムラ/天鼓)、INTENSION、板橋克夫/吉沢元治、山崎春美/大里俊晴、灰野敬二、VEDDA MUSIC WORKSHOP(竹田賢一/向井千恵/風巻隆/鈴木建雄/河原淳一)、KINO(河本きの)、田中トシ/後飯塚僚/ニシャコフスキー、マシンガン・タンゴ(工藤冬里/菅波ゆり子/小沢靖/白石民夫ら)となっている。

私はいま、ここで個々のトラックについてあれこれ言う気持は無い。今聴いてもこれだけの多様な人達がそこで蠢いていた様は、半透明でふにゃふにゃの卵、それは孵化するのかどうか分からないのだが、それが沢山転がっているかのような気がする。そして、音楽以外に話題となったのは、このLPに(人のものか動物のものか論議は有るが)「乾燥した糞便」が添付されていたことだ。これはLPがシールで密封されているので、開封する迄わからない。ギャラリーメルデ(勿論、糞の意味だ)の作品だという。

 
<ある夜のマイナー>

話をもどそう。19791226日、マイナーでの「自虐視座の戯れ」のメンバーは、佐藤氏がピアノ(リングモデュレーター付き)、久下恵生さんがドラム、石渡明廣さんがギター、伊牟田こうじ君(後に「野戦の月」など芝居方面へ)がボーカルだった。それに私がサックスとバイオリン。ライブ直前のリハーサルは実にあっさり終わり不安だったが、皆が「まあどうにかなるのさ」的なノリだったので、そう思う事にした。一曲目から私のバイオリンはノイジーだった。が、今その録音(ちゃんとあります)を聴くと伊牟田君の声にマッチして良かったと思う。

この日の出演は「自虐視座」の他、「不失者」と「光束夜」だった。我々の後、まずは「光束夜」がやった。故人となった金子寿徳さんがギター、ミックがベースとボーカル、横山宏さんがシンセサイザー、佐藤氏の奥さんだった敏子さん(すばらしく美人だったが、亡くなられた)がドラムだった。ミックの絞り出すような声、単調なヴェルヴェッツのようなドラム、ファズの効いたギター、うねりながらひきつるシンセ。結構気に入ったのだが、後の「光束夜」の音とはかなり違うように思う。この演奏も録音していたので、それから20年程して金子さんにコピーをさしあげたら大変に喜び、光束夜のLPをくれた。

そしてトリは灰野敬二率いる「不失者」である。メンバーは覚えていない(小沢さんがベースだったと思う)。というかどんな演奏だったかほとんど覚えていないのだ。録音もテープの収録時間がなくなって出来なかった。とにかく音量に圧倒された。全ての感覚が音圧で麻痺した。ステージは真っ暗で、かすかにどこからかの光が激しく動く灰野敬二を捕らえる。

印象に残ったのは、この日の客のいでたちが皆一様に灰野さんや金子さんと同じく、黒づくめで、サングラスをした人ばかりだったということだ。私はサックスとバイオリンを抱えて山から下りてきたような格好だったので場違いも甚だしいといった風だった。まあ高校生だった伊矛田君も普通のセーターに坊主頭という、これまた違和感ある(町中なら普通)格好ではあったが。


<ガセネタの荒野>

佐藤氏は、「自虐視座の戯れ」のリーダーでピアニスト、そして少し大編成の「SighingPオーケストラ」の主催者でもあったが、実は、伝説のバンド「ガセネタの荒野」(ガセネタの方が通るかな)の前身バンド「こたつで吠えろ」のドラマーでもあった。ご存知の方もいるとは思うが「ガセネタ」は山崎春美(vo)、浜野純(el-g)、故大里俊晴(el-b)、それに佐藤氏という布陣だった。

「ガセネタ」というバンドは、後に園田佐登志氏の編集テープがCD化されて話題だか問題だかになったが、彼らはパンクというにはあまりにもノイジー、ノイズというにはあまりもロックだった。後にパリ留学して音楽学者として評価されることになる大里氏、そして小学校からビーフハートを聴いていたという浜野氏、そこに大阪の阿木譲編集の「ロックマガジン」で特異な文筆活動をしていた山崎氏が加わり、ジャズピアノを志していた佐藤氏がドラムで参加という極めて異様な成り立ちだった。

大里氏は、この前後の頃の話を小説仕立てで、しかし実名入りで書いている。この「ガセネタの荒野」は、当時の雰囲気をよく伝えていると思う。大里氏には世話になった事もあるので、またいつか書きたい。山崎氏は後に、混成的バンド「タコ」をピナコテカからリリースした。音楽学者の細川周平さん(「ウォークマンの修辞学」で知られたが、後の「レコードの美学」はもっとよかった)や、坂本龍一も参加した。山崎氏はまた、伝説的雑誌「JAM」、「Heaven」などの編集に関わる事になる。


<時代の流行>

当時の流行というか知的アンダーグラウンドでは、上記のビニ本(自販機で売られていた、陰部の写真まるだしのエロ雑誌など。他に荒井真一さんの編集になる「クリス」なんてのもあったな)、フランス生まれの反哲学的宣言「リゾーム」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ)の日本版を出した「エピステーメー」(朝日出版)、そして「遊」(工作舎)などの雑誌が読まれていた。あるいは「美術手帳」(後にBT)、「ユリイカ」、「現代詩手帳」「現代思想」「読書新聞」「読書人」なども良く読まれていたと思う。おっと音楽関係を忘れていた。間章、竹田賢一らが毎月多方面に渡る評論やレビューを書いていた「JAZZ(後にJAZZ MAGAZINE)は毎号買った。といっても台所が苦しくて次第にちゃんと出なくなってしまった。「ジャズ批評」もフリーや即興関係が載ると買った。

アーティスト、というか現代美術では、ヨゼフ・ボイスが一番注目されていたと思う。彼の来日パフォーマンス、個展の頃、仲間でもあるナムジュン・パイクも来日して個展をやった。「資本主義はもうすぐ終わる」と宣言するボイス。大戦中ドイツ空軍の爆撃機乗りだったボイス。撃墜されたボイス。遊牧民に命を救われたことを広言するボイス。自由大学を創立したボイス。「緑の党」の候補となるボイス。フルクサスの一人だったボイス。ボクシングをし、コヨーテと暮らし、樫の木を植える、等々、なんだか妙に人の心をくすぐるパフォーマンスをするボイス。いつもフィッシャーマンズジャケットを着ていたボイス。蜂蜜と血液と死んだウサギと脂肪とフェルトを用いて彫刻をつくるボイス。風呂桶やら、スーツを作って展示するボイス。日本でのパフォーマンスは超満員。今になってみれば、あの騒ぎはなんだったのかと思う。

結局、西武美術館に踊らされていたのかもしれない。いや、そういう大資本を動かす力をもっていたボイスにか。結局、彼は資本主義より先に心疾患で死んでしまったけれど。その辺のものにサインするだけでも、殴り書きした黒板でも、なんでも売れちゃうという現
代美術のスーパースターだった。でも彼が再評価される日は来るのか?弟子みたいな存在だったA.キーファーの噂も聴かない。ボイスやフルクサスを私に教えてくれたのは、ヴェッダミュージックの一員で、優れたデザイン感覚を持っていた河原淳一さんだった。彼はピナコテカのロゴマークやデザインを色々手伝った。河原さんは最近出版された竹田賢一さんの初の評論集の装丁もやってくれた。


<芦川聡さんのこと>

まあしかし、当時「西武美術館」は、田舎者の私が上京したときには必ず立ち寄る場所だった。というのは、そこにあった美術書と現代音楽の専門店「ART VIVANT」が好きだったから。その店長をやっていたのは芦川聡さんという方で、社会学を専攻したが、音楽への関心が嵩じて、シンセサイザー奏者、作曲家になってしまった人だった。私や友人の求めに応じて、何枚でも試聴させてくれた。

当時、丁度ブライアン・イーノの「オブスキュア・レコード」が話題になり始めていた。ロキシーミュージックのおかしな奴と思われていたイーノが、独立してソロを立て続けに2枚出したが、これは実に奇妙なテイストのアルバムだった。私は今でもこの二枚を愛聴している。そして3枚目のソロ「アナザーグリーンワールド」において彼は変貌した。そこにはそれまでの猥雑な世界ではなく、新たな美学があった。シンプルで、広がりがあり、聴く事を強要しない音楽。

これはサティの「家具の音楽」の理念を拡張したものだと説明された。「聴きいることも、無視する事もできる音楽」。「音楽の壁紙」。それらを宣言したのが「ミュージック・フォー・エアーポート」だった。これが「アンビエント・ミュージック・シリーズ」となったが、その前にイーノは、英国の実験音楽家を集めて次々とLPを製作、10枚に達した。それが「オブスキュア・レコード」だった。マイケル・ナイマン、ギャビン・ブライアーズなどその後売れた作曲家の作品が多い。これはイーノが、「ポーツマス・シンフォニア」に参加していたことに由来するだろう。そしてこのユニークなオーケストラは、コーネリアス・カーデューの組織した集団「スクラッチ・オーケストラ」からスピンオフ 
したものある。それは「音楽を、非専門家集団の手で」という理念に基づいている。

話を戻す。「ART VIVANT」の芦川さんはこれらを高く評価していた。そして後に店を退職し、自らのレーベルを立ち上げ、自作も含むLPを二枚製作すると同時に、イーノがプロデュースして話題になった演奏家、作曲家、ハロルド・バッド(アンビエント・シリーズで『鏡面界』を発表)を招聘した。そのライブはとても好評だったが、直後に芦川さんは交通事故で亡くなった。私は自作のアルバムを製作中に芦川さんのお宅にうかがい、パッチ式のEMSシンセサイザーを借りたり、色々お世話になった。芦川さんは、マイナーにも出入りしており、灰野さんらとも共演していた。その記録もある。(続く)

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