Text:Onnyk
<今回は、Gモダーン30号に掲載するつもりだった文章を短縮して、書直している。というのもその号がいつ発行されることになるか、紙媒体か、ネット上かも不明だからだ。これも世情を反映している話である。モダーンミュージックの生悦住さんには了承をとっているし、いざ、掲載の折には、大分時間が経っていることを考慮して書直す予定である。では始めましょう。>
「あら、これって宮西計三の絵じゃない?」
真っ昼間の、人通りの少ない飲み屋街を通り過ぎる中年の女性が二人、足を止めた。ごく普通のご婦人方である。ライブ会場に設定した店の前に貼ったチラシに、一人が反応したのだ。(なるほど、潜在的な宮西計三ファンはまだまだいるってことか)私は追いかけて行って彼女達を誘おうとしたのだが、残念ながら立ち去ってしまった。それは2010年の春のことだった。
まずはドーシマスシンフォニアの演奏。編成は、エレキギター、ドラム(スネアとフロアタムのみ)、パーカッション、バイオリン2人、ピアノ、サックス、チューバ、ボーカルに指揮者という十人である。このアンサンブルのメンバーは年齢、性別も実に様々である。背景もクラシックの専門教育を受けたもの、ウィンドアンサンブルのメンバー、もちろんジャズやロックをやってきた者もいる。
こうした混成集団が生成されたことには背景がある。2010年の2月、コントラバス奏者、河崎純(パーカッションの中谷達也とならび、私のベスト共演者の一人)が三日間連続の「作曲ワークショップ」を開催した。このときのメンバーのかなりが、後にドーシマスシンフォニアに参加している。また2012年2月に在米のパーカッショニスト中谷達也(前述の通り)、そしてスウェーデンのギタリスト、デヴィッド・スタッケナスのデュオが、地元寺院僧による声明と地元演奏家集団をくわえて即興的なアンサンブルとして同寺院でライブを敢行したのである。この演奏集団にもシンフォニアの面子が殆ど含まれていた。
ドーシマス・シンフォニアの演奏は、地元のハードコアパンクでは代表格の存在、森田泰正(モータルファミリーではギターとして活躍している)の作曲した”tousei”である。演奏は全員の声によるリフレインから始まり、ギターとドラムがそのまま引き継ぎ、楽器が次第に層を成して重積していく。そこに全く異なる中国風な旋律が現れ、サックスとチューバだけが残ってそのフレーズが繰り返される。歌手は、何か中国語の歌詞を喚いている。そしてアンサンブルは、波が岩礁を洗うようにフレーズを覆うように響く。バイオリンが旋律に参加してなんとか消されまいとする。いきなりピアノが激しくグリッサンドへ向かい、全員が最初のリフレインへと突入。次第に皮が剥がれるように楽器は減少し、ギターとドラムだけになり、最後の煌めきのようにギターとドラムがソロをとって終わった。
そしてヒグチケイコ・神田晋一郎デュオのステージ。彼らはCD「種子の破片」を発表し、ライブを継続している。ヒグチはソロパフォーマーであり、海外での公演も盛んだし、最近ではHIKO(GAUZEのドラマー)とも組んでいるという。神田は、即興を制御する作曲を軸に多様な共演者があり、自らの曲を演奏するユニット「音樂美學」で3枚のCDがある。さらに09年以降、ウンプテンプ・カンパニーへの協力で作曲、演奏を提供し、演劇領域への進出を見せている。この二人の表現は対照的だ。大胆にして過激な迄の表現を見せるヒグチ。繊細きわまりなく卓越したピアノ演奏を聴かせる神田。
あたかもミルバとピアソラのよう。このデュオの振幅はどこに収束するのか。「静と動」の弁証法のように、肉声とピアノが絡まり合う。これはエロティックな瞬間だ。普段、使われていない伴天連茶屋のピアノは、いい状態ではないのだが、神田はそこに潜んでいたシルフを呼び出した。そしてヒグチはといえば、ハーピーのように翼を広げ、あらゆる声で我々の聴覚を麻痺させ、その隙に脳髄へ種子を播いていったのである。
いよいよOnnaの登場である。開口一番、宮西は言う。「これから、ふしだらな歌を聴いてください」。ヒグチの呪縛が解けぬうちに、変成男子なのか変成女子なのか、アンドロギュヌスの如き宮西が、囁きだす。古びた土蔵の中の澱んだ空気を、宮西のギブソンが、そのボディと同じく血の色をしたサウンドで染め上げる。ブルーズギターのエキスパートたるロイキは、サポートだけでなく、確実に宮西の繰り返すフレーズを縁取り、そして縫い上げて行く。
長く尾を引いたギターと、宮西のうめきによって幕は降りた。翌22日、盛岡駅に近い「開運橋のジョニー」に場を移し、祭儀は続く。(この店は、かつて「陸前高田のジョニー」として、岩手県沿岸の陸前高田市にあったが盛岡に01年移転。さらに13年、また移転して営業中)前座は4人編成のバンド「リアン・ジェイル」。彼らは言う。「無(リアン)と牢獄(ジェイル)。この間に世界はある」。
Onnykの印象的なリズム。これはフラワートラベリンバンドの「サトリ・パート2」?。そしてベースのユウジが刻むのはコルトレーンの「至上の愛」。なんという錯誤的な組み合わせ。スキンヘッドのギタリスト米山がハウリングさせながら「ラヴ・シュープリーム!」と叫ぶ。そして女性バイオリニスト、ニコレッタは「サトリ」のフレーズを繰り返す。演奏は「至上の愛」に接近し、また「サトリ」へと回帰した。
前日と同じくヒグチケイコ・神田晋一郎デュオが登場。神田のピアニズムはさらに研ぎすまされた。まさにピアニッシッシモの、極小の音を極小のまま、透明に響かせる神田の並ならぬ技量は、ジャズやロック系のピアニストと出自の違う事が一目瞭然であった。そして決して優美なだけに堕さない異質な和声の混入が、聴衆の陶酔嗜好に釘を刺す。ヒグチも、前日以上に存在感に溢れていた。その演劇的な、舞踏的でさえあるような姿態は、バルバラやダミアはこうであったろうかと思わせるに十分だった。そう、彼女はどこかシャンソン・ノワールの雰囲気を湛えている。しかしヒグチケイコの声は、ディアマンダ・ギャラスからビリー・ホリディまでのレンジで恐るべき強度を保持している。
しかし、私はもはや、この晩のOnnaについて、宮西計三について何も言いたく無い。ロイキのギターも、自在にリフレインの裏と表を行き交い、テンポを盗み、あたかも宮廷楽士、道化師の如く、司祭宮西の回りを走り抜ける。宮西の声はギターと一体化し、どこまでも天上をいや地獄を目指していた。しかし、サウンドが地階の店内を充たし、聴衆を具材とした「恍惚のスープ」を煮込んでいたのは確かだ。私は自らが溶けて行く快感の中で「最盛期のヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『シスター・レイ』はこうであったかもしれないと思った。いや、それ以上の何かだろうか。宮西自身もまた、トランスのなかで、内側の眼を見開いていただろう。「俺は俺ではない。俺はかつて呼ばれていた何かではなく、全てだ。俺は存在しない。なぜなら遍在するからだ。俺はお前だ。俺は神が自らを見るために開いた眼だ」
宮西は、総ての蔑まれる存在の象徴としてOnnaという名を選んだ。また、あらゆる芸術の根源的な象形としてオンナの身体があったともいう。そしてラカンによればOnnaは存在しない。OnnaはPhallusであり、欲望の対象であり、母の身体である。だから宮西の描く女は複数のペニスで出来ているわけだ。では宮西の歌とサウンドは何でできているのか。それは決して「精液」ではない。なぜなら宮西は決して達する事が無いからだ。宮西の音楽を、あの貼り出したチラシを見て興味を持ってくれたご婦人方には、裾をからげて入場されん事をお薦めすべきだった。それは終わりの無い輪舞のような、地獄巡りの入り口なのだから。(続)
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