2014年11月9日日曜日

Cyril M.「Diffraction」

Text:Onnyk

カセットというアナクロなメディアは今、また注目されている。今、音楽を楽しむツール としては、スマホにダウンロードした音源をスピーカやヘッドフォンに繋ぐというのが通 常だろう。ちょっと前ならMP3の専用プレーヤーだった。それがパームトップコンピュー タというべきツールに集約された。今度はウェアラブルなツールになるだろうし、そのう ち体内にインプラントされるのだろう。歯でかちかちっと咬みならして操作するとかね。

人間の価値は、そのツールの中にどれだけのソフトが入ってるか、最新のCPUとメモリー の大きさで評価されるなんていう時代が来るのか?そんなトレンドのなかでヴィニールで もなく(私はヴァイナルという言葉が嫌いだ)カセットリリースだ!拍手!記憶では自分がカセ ットをいじり出したのは1971年だ。この当時、ソニーが今のハードカバー本のサイズのカセットテープレコーダ「MEMO」(TC-1010 マガジンマチックMemo)を販売開始した。

これはスピーカとマイク内蔵型であったがモノラルで、それから8年ほどしてウォークマ ンが発売される。スピーカなし、マイクなしだが、オープン型ステレオヘッドフォン専用 、再生専用機だった。これが現代人の聴取環境と音楽傾向を変えたと言われる。それは、一方で個人的聴取が促進され、一方で不特定多数が一斉に音楽を楽しむ様式はディスコやクラブへと変化して行った。



カセットは自宅で編集し、複製し、どんどん増やす事ができた。これは現在のCDRと同じだ。しかしまたカセットは消去が簡単だった。つまり上書きしてしまえば全く違う作品となってしまうのだった。実を言えば私は第五列という非組織集団のなかで自作や、友人達の作品を集め、ダビングサービスという形で無料の配給をしていた頃、1980年代は、世界中に無数のカセットレーベルがあったし、自宅録音をする「ホームテーパー」と呼ばれる存在も限りなくいた。こうした人種は、アナログ盤を作る程資金力が無く、また販売するより、互いに作品を送り合い、誰かの企画でコンピレーションを作ることでネットワークを広げていた。

しかし、ここでフランスの鬼才、シリルMがやろうとしているのはそういうことではない。音質も、操作性も、ネットワーキングも80年代とは比べ物にならない程発達した。とはいえ意外にCDRのデータは消えやすいし、CDの耐久性も疑問視されている。カセットはヴィニールに次いで耐久性があるかもしれないし、元テープの質と管理状態さえ問題なければもう40年も前の録音がしっかり聴ける。

シリルは耐久性を求めている?そんなことでもない。私が推測するのは、このカセットというメディアによって刺激されるシーンへの影響なのだ。今、カセットを再生するメディアを持っている割合がどれだけいるだろう。おそらく音楽ファンの殆どは持っていまい。40歳以上の音楽ファンがもっていただろう、カセットはどこへ消えた?捨ててしまったのだろうか。物置の奥にMD共々箱詰めにされ、埃をかぶり、カビが生えているのだろう。とっくに使わなくなったラジカセやカセットデッキ付きのコンポーネントスレテオはどうなった。粗大ゴミだろう。

だからシリルの新作を聴くためには誰かカセット再生ハードを持っている人に頼むか、そのハードからデジタル化してCDRを作らなくてはならないだろう。これは大きな障壁だ。しかし、それを乗り越える人々はシリルの新作を聴く事に一つの達成感を覚えるだろう。いわば、シリルは廃墟の奥まった一室に秘密を隠したのである。そこまでたどり着く人々は共通の秘密を手にする。そしてそれを持ち出そうとするだろう。これは「聴く」という行為への積極的参加なのだ。もっとも実を言えばダウンロード可能なサイトが用意されている。これは障壁を乗り越えるのを最初から諦めている人のための抜け道なんだな。

さて、その秘密なのだが、A面はシリルのソロ、B面はSacha Navarro-Mendezという演奏家との即興デュオとなっている。あ、ご存じないかもしれないが、カセットには表裏2面があり、A, Bと呼び習わされている。両面とも収録可能時間は同じだ。そして連続再生は基本的にできない。シリルのカセットなら、片面は30分でこのカセットはA面が27分25秒、B面が「デュオ1」10分、「デュオ2」で16分32秒の収録だ。 

2014年正月、シリルは来日して、私も共演の機会を得た。そのときの印象がA面のソロではまざまざと蘇った。シリルはギターをオープンチューニングして、長いディレイとホールドをかけるので、エレキベースが居て演奏しているのとほとんど変らないような「一人デュオ」ができる。

でもそれでいい。この演奏はまるでアシュラテンペルのファーストの1曲目じゃないか!PAが悪くてドラムのシュルツェが聞こえない(いねーって!)。でもそれで丁度いいじゃないかという感じのサイケデリアですね。途中からは次第に音の壁が厚くなりすぎてノイズの海になっていく。ジャケットのアート(Zussyさんという人の作品)のような濁流の渦だ。そのうちに収 束 して弓をつかった演奏が主とな り 、 熱は下がって行 く かと思いきや、前にも増して鋭角的なギターの金切り声が襲いかかる。

演奏が終わって拍手が聞こえるが熱狂的ではない。醒めた聴衆がまたいいじゃないか。さてB面だが、うって変った風景が展開する。これは録音環境も異なる。ひたすら音のやり取りを続 ける即興で 、シリルは弦に色々挟 み 込 ん だり、クリップを留めてプリペアド奏法を展開する。

Sachaははっきり分かる演奏をしている。一部をプリペアしたピアノである。プリペアドピアノは、ジョンケージが開発した演奏法として既に90年が過ぎようとしているが、ギターでこれを始めたのは誰だろう。70年代即興シーンではドイツのハンスライヘルが得意だったし、フレッドフリスもよくやっていた。特にヘンリーカウのライブ即興などで聴けた。だからちょっと印象は、フレッドと、ティムホジキンスンのピアノかと思うような出だしなのだ。そのうちに両者ともにプリペアをやめ、調性のあるリフレインが出現する。ピアノも内部奏法(弦を直接叩くなど)をするから、まだティムホジキンスン的なイメージがある。ただ、二人ともどこかためらいがちである。ダイナミックさがないのだ。

Sachaはピアノで彷徨い歩く。タッチは奇麗だ。シリルはエルボウ(音を持続させる装置)を使いつつ、またプリペアに戻り、多分膝の上に載せて弾いている。こうした水平に置く演奏方法は、キースロウ(AMM)が得意だ。そういう意味でシリルは知ってか知らずか、過去の即興演奏の様々な演奏を「個体発生は系統発生を繰り返す」という形で反復している。それはとても良い徴候だろう。何故なら今更誰もがヘンリーカウやAMMを聴くとは思えないからだ。代わりに新しい世代が新鮮な気持でやる方がいいだろう。年寄りはそれで安心するし。

さて、デュオはまたディレイを使いながらリフレインを繰り返しつつ消えてゆく。ありがちな展開だ。こちらはフェードアウトなのか。そして聴衆の反応もないからライブではないのか。互いの反応を感じながら構築して行くのは確かに即興の醍醐味だが、それだけでは限界とマンネリがくる。ではどうすべきか。これは実践者の自覚に待つしかないのだ。と、偉そうな物言いをするのは年寄りの悪いクセだ。許してほしい。シリル君、また来てくれよ。

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