Text:Onnyk
1977 年の夏、7月23日、奥多摩のユネスコ村に、テリー・ライリーが来た。彼の初来日で、大きな野外コンサートだった。正式名称は「コンテンポラリー・ミュージック・トゥディ:ザ・メディア3」という現代音楽系の企画で、ライリーはその目玉というかメインゲストだった。
「コンテンポラリー・ミュージック・トゥディ:ザ・メディア3」については、そのコンサートのすぐあとにNHKのFM放送で「現代の音楽」という番組があり、そのプロデューサー故上浪渉が抜粋を流してくれた。このエアチェック録音は園田佐登志さんがユーチューブにアップしてくれているが、ライリーの演奏は極めて短い。というのはライリーのソロに関しては、別の機会に延々と放送されたからだ。
私はもはや関心を失っていたせいもあるが、ライリーが去年11月に来日していたことは知らなかった。初来日から37年経っている。ネット上の情報は全然あてにしない主義だが、いったいどんなことになっていたのかをちらっと見た。思いがけないことだがジョジョ広重君が随分と書き込んでいた。なるほどね、音楽はよかったが環境は悪かったと。招聘だか企画だか主催した寒川裕人さんは全く知らない(ハモンド奏者の寒川さんとは関係ないのかな)。まあこの世代の人にとってはライリーはまさに仙人か伝説みたいなものだろう。伝説というのは分け入るほど、その神秘性や魅力は消滅していくのが常ではあるのだが、それを知るのはいつだろうか。
さて現代音楽とロックの競宴ともいわれた、「コンテンポラリー・ミュージック・トゥディ:ザ・メディア3」であるが、なんとなく「ミニマルとロックって相性がいいんじゃないか」程度には皆感じていた。私もそうだった。プログレの向こうにミニマルを見ていたような気がする。好天が予報されていたが、奥多摩のユネスコ村迄は遠かった。一緒にいったのは、私とゲソ君、後のウルトラビデこと藤原君、当時よくつきあっていた佐藤君の4人だった。着いたのはもう4時くらいだったと思う。駅についてすぐ、予約者にはTシャツが渡された。これが入場券なのだ。それをすぐ着たかどうかは忘れた。
駅から山道を十分も登っただろうか。突然、山の斜面を利用した、すり鉢を半分にしたような形に成形された野外劇場が現れた。客席は斜面にそって20段もあっただろうか。コンクリートで階段状にされ、ぶ厚いプラスチックの板がベンチとして置かれている。客席はほぼ満員。ヒグラシの声が実に美しく響いていたのを思い出す。気温も、暑くはなく、これでは夜中に涼しすぎるかもしれないと思ったほどだ。客席は全て自由席ではあるが、ベンチの両端にだけは座らないよう指示されている。それがミソだった。実は、ここに演奏者が座ることになっていたのである。
駅から山道を十分も登っただろうか。突然、山の斜面を利用した、すり鉢を半分にしたような形に成形された野外劇場が現れた。客席は斜面にそって20段もあっただろうか。コンクリートで階段状にされ、ぶ厚いプラスチックの板がベンチとして置かれている。客席はほぼ満員。ヒグラシの声が実に美しく響いていたのを思い出す。気温も、暑くはなく、これでは夜中に涼しすぎるかもしれないと思ったほどだ。客席は全て自由席ではあるが、ベンチの両端にだけは座らないよう指示されている。それがミソだった。実は、ここに演奏者が座ることになっていたのである。
最初の演奏、三枝成彰作曲「ザ・ゲーム」では百人の打楽器奏者が同時演奏するのだが、彼らの多くが客席中のベンチに座り、その他にステージ上には大きな打楽器がセットされている。演奏開始。客席の奏者は、そのベンチを直接スティックで叩き始めた。その振動は直接、お尻から伝わってくる。また、今で言えばスタジアムのウェーブのように端から端迄、ざぁ〜っとその打撃が移動する。と、シンセサイザー奏者、フランク・ベッカーがまさにアナログシンセならではの、ポルタメントのかかった電子音をまき散らす。これは三枝成彰にとってもかなり実験的だったのではないか。この雰囲気は、例えばフランスのアーバン・サックスを思い出すといいかもしれない。複雑なリズムではないが単純なものも集合するとゆらぎを生む。これが単純さを感じさせないのである。
いずれ、この演奏には非常に満足し、これからの演奏に期待がもてた。高橋悠治と吉田美奈子の即興的、対話的連続演奏「連歌のように」は、吉田の歌とピアノ演奏から始まった。そのモチーフを引き取って悠治がピアノ演奏開始、しかし、あまり大きな変奏には至らない。また吉田が引き継ぐ。彼女は歌、自在な声の即興を中心にしている。悠治はあくまで音を紡ぐという印象である。正直、これはだれた。
次は、佐藤聰明が、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズの詩「エクリプス」によって書いた歌。歌うのは、ロックバンド「バックスバニー」の金子マリ。これは佐藤らしい曲だった。佐藤については当時、コジマ録音のレーベルALMから出た「太陽讃歌」を知っていた。その作曲者自身による演奏のレコードは非常に気に入っていた。まさにミニマル音楽!これぞミニマルというべき演奏だった。
続いて一柳慧のピアノ曲、自作演奏「リカレンス」。一柳は、ケージにも影響を受けた、日本を代表する作曲家であり、ヨーコ・レノンの前夫である。例えば武満や、高橋や、小杉といった面々とはかなり違うスタンスの前衛であり、実験派であった。「リカレンス」はミニマルといえばミニマルではあった。しかしそれを狙った演奏ではない。逆に耽溺する事を断固として拒否するような曲。強く印象に残った。彼の作品で似ているといえば「ピアノ・メディア」であろうか。
そしてスーパー・クロストークと名付けられた集団即興セッション。フランク・ベッカー、高橋悠治、リ・タイシャ、マイケル・ランタ、一柳慧、佐藤允彦が参加した。一柳とランタは、小杉を加えたトリオで即興演奏の名作「improvisation, sep. 1975」を、自主レーベル「イスクラ」から出していた。これはNHKのスタジオで上浪渡のプロデュースによって録音された。この演奏があることは極めて稀で重要だと思う。そういう記憶があったから、このメンバーを見た時、非常に期待した。さらに即興では既に顔合わせもしている、佐藤允彦と高橋悠治もいる。ジャズ系の即興セッションなら面子で音も想像付くのが多いが、ここに集まったのは基本的には作曲家達である。作曲家による即興演奏集団といえば、イタリアの「グルッポ・ディ・インププロヴィザッツィオーネ・ヌオヴァ・コンソナンツァ」、そして「ムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ」が有名だった。
日本には無かったか?あった。それは既にかなり昔のことになっていた。77年当時の私は勿論知らない。「グループ音楽」がそれだ。芸大生を中心に作られた。小杉、刀根、塩見といった後にフルクサスに参加するメンバーがいた。また、77年はようやく、佐野清彦、曽我傑、多田正美のGAPが動き出した頃だったが、これも当時は知らなかった(「タジマハール旅行団」はどうなんだろう。作曲家集団というのは難しい)。
いずれ、作曲家のジャムセッションというのを生で見たのはこれが最初であり、その後も無いように思う。その結果は?できればこの演奏、最初から最後迄の録音があれば聴きたいと思う。残念ながら、後の放送でも本当に一部しか聴けない。とにかく実際に会場で聴いた印象と、おそらくミキサーから録音されたものが印象がまるで違うのである。この演奏は30分もあっただろうか。そして途中で高橋悠治はステージを降りてすたすたと客席の階段を上りどこかへ行ってしまった。後に彼自身にその時の挙動の理由を聞いたことがある。しかしはぐらかされてしまった。プログラムでは、次に高橋悠治「電気紙芝居:地獄の話」となっている。これは当時、悠治がよくやっていた絵のスライドと語りと演奏を組み合わせたものだったと思う。内容的には戦時中の悲惨な状況を描いたものだったかもしれない。
いずれ、作曲家のジャムセッションというのを生で見たのはこれが最初であり、その後も無いように思う。その結果は?できればこの演奏、最初から最後迄の録音があれば聴きたいと思う。残念ながら、後の放送でも本当に一部しか聴けない。とにかく実際に会場で聴いた印象と、おそらくミキサーから録音されたものが印象がまるで違うのである。この演奏は30分もあっただろうか。そして途中で高橋悠治はステージを降りてすたすたと客席の階段を上りどこかへ行ってしまった。後に彼自身にその時の挙動の理由を聞いたことがある。しかしはぐらかされてしまった。プログラムでは、次に高橋悠治「電気紙芝居:地獄の話」となっている。これは当時、悠治がよくやっていた絵のスライドと語りと演奏を組み合わせたものだったと思う。内容的には戦時中の悲惨な状況を描いたものだったかもしれない。
後に盛岡で、悠治が来ないままで「縛られた手の祈り」という、キム・ジハ(金芝河)の詩による同様の上演を見た。悠治は朗読と演奏をカセットに入れて、上映スライドとともに地元の主催者に任せた形で行ったのである。当時は、韓国の強権的な政治体制に反対する動きが強く、反国家活動により投獄、死刑判決を受けた詩人キム・ジハはその象徴とも言える存在だった。しかしその後彼は減刑、釈放され、宗教活動に身を投じる。私はこうしたアジアの動きを悠治の著作から学んでいた。「ロベルト・シューマン」「ことばをもって音をたちきれ」「たたかう音楽」等々。これらの本には、他にもフィリピン、タイ、チリなどの政治体制とそれに抗する音楽家のことが沢山、書かれており、それを読めば「音楽を単に趣味として聴く事は罪ではないか」とさえ思えて来るのだった。
そしてクラシックの歴史的作曲家達のイメージを一掃するような解釈や評論、クセナキスに師事しながらも彼を批判するだけの理論、また数学や漢籍やギリシャ哲学から得た作曲の発想の解説、こうした内容に影響を受けない筈が無い。間章がもっぱら感性的な面で影響したとすれば、まさに悠治は知性へ働きかけてきたのである。こういう本を紹介してくれたのが、一緒に奥多摩まで行った佐藤君だった。佐藤君の父は青森県の労音関係の仕事をしており、津軽三味線の高橋竹山が広く知られるようになったことに貢献していたという。また、実家に沢山の民俗音楽のレコードがあったという彼は実にそうした方面の名作を紹介してくれた。
また悠治は、日本の作曲家達が自主的な編集で音楽評論を展開する雑誌「トランソニック」の編集長もかってでた。が、これは途中で放棄してしまう。まあその過程はわからなくもないが、結局、今の日本で闘争的に音楽を考えて行く事の困難さであるといってもいいだろう。そしてまた作曲家達の集団の微温湯的な状況に業を煮やしてともいえるだろう。そんな態度がそのまま、ステージから降りて客席にまぎれこんでしまう悠治のイメージと重なるのである。しかし、この「電気紙芝居」の上演、殆ど覚えていない。多分、少し寝てしまったのだろう。これが確か日付が変わったあたりだ。
そしていよいよテリー・ライリーが午前一時頃に登場した。私は夜気を払うためにビールなど飲んでいたと思うし、ビデ君がタコヤキか、ヤキソバを買ってきたので一緒に食べたりした。そのせいでライリーの演奏が始まって1時間も経たぬうちに寝てしまったのである。ライリーは「シュリ・キャメル・トリニティ」というタイトルで演奏をした(後にトリニティがとれたけど)。あるセッティングをして、それで演奏すればいつやっても同じタイトルということのようだ。これはインド古典音楽のラーガの手法に似ている。ご存知と思うがインド古典音楽は基本的に即興演奏である。これは声楽でも器楽でも同じだ。インド声楽を学んだライリーがそういう方法をとることには何の不思議も無い。
その演奏は、特殊に調律された電子オルガンを使い、それがかなりゆっくりとしたディレイをかけて繰り返されて行く、それにまた即興で時折音質を変えながら重ねて行く訳だ。単純と言えば単純である。こういう仕掛けが分かると、神秘的なベールが剥ぎ取られ、「ああ、モーダルインプロヴィゼーションなんだな」ということで納得してしまった。当時のテリー・ライリーの使用楽器は電気オルガンであった。シンセサイザーではない。たとえば彼のヒット作「レインボウ・イン・カーヴド・エア」では明らかにシンセサイザーのサウンドが多重録音されている(余談:カーヴド・エアというプログレバンドをご存知ですか?)。しかし、来日時は何故電気オルガンであったのか。それは、特殊な調律を必要としたからだ。電気オルガンの各鍵のピッチ(音高)は、電流の抵抗値で決まっている。だから抵抗値を変えればどんな高さに調律することも可能だ。最近ではデジタルシンセサイザーでもそういうことが可能になっているが、当時はまだできなかった。アナログシンセの時代である。
調律を変えてしまうことが彼の音楽の要の一つだった。ディレイを使った演奏は一度出した音、フレーズが繰り返される。通常の調律のオルガンで、ディレイを用いた演奏を続ける場合、どこかで転調すると不協和音になる。それを許容するか否か。転調しなければモーダルな即興として、コルトレーン始めジャズにもロックにも多くの例はあった。ワンコードで延々とアドリブを続けるわけである。ライリーはオルガンを、通常の鍵盤楽器の「平均律」とは異なる「純正調」と呼ばれる調律にした。平均律は1オクターブを12等分している。これはすべての調で演奏が可能で、転調や移調が自由に行える。それに対して純正調はある種の調では和音の響きが悪くなる。そのため転調、移調が困難になるとされる。
純正調は、厳格な音楽教育を受けた「絶対音感」を持つ人には多少居心地悪く響くようだ。しかし、現代の大衆音楽では特殊な調律にすることはまれではない。わざと狂わせたほうが味になるという感覚もある。だから、そういう世代へのアピールとしては純正調で延々と即興を展開するのは戦略だ。彼の演奏が陶酔的、夢幻的な印象をもたらすとすれば、それはジャズやロックのようにサックス、ピアノ、ギターのアタックで変化やら盛り上がりを見せることもないような、オルガンという楽器の所為だろう。ある人が「水飴のような」と表現したその演奏は感情の起伏を排し、睡魔に誘うがごとき単調さを狙っていたのだ。音楽を聴きながら睡眠に誘われることは決して悪いことではないが、それを欲する時期と年齢があることは確かだ。
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