2015年5月13日水曜日

ニューナンブ (11) 「1977年、テリー・ライリーを見に行った 2」

Text:Onnyk


ミニマリズムというと、これは美術にも通じる言葉で、60年代ポップ・アート、オプチカル・アートとの関連も有るが、これはまたややこしくなるので音楽のミニマリズムの話だけにする。ミニマル・ミュージック、ニューモーダル・ミュージックとも言われた様式だ が、それまでのアカデミズムからちょっと離れたところで成長してきた、ちょっとポップ な現代音楽である。ミニマリズムというと、これは美術にも通じる言葉で、60年代ポップ・アート、オプチカル・アートとの関連も有るが、これはまたややこしくなるので音楽のミニマリズムの話だ けにする。ミニマル・ミュージック、ニューモーダル・ミュージックとも言われた様式だ が、それまでのアカデミズムからちょっと離れたところで成長してきた、ちょっとポップな現代音楽である。

ラ・モンテ・ヤング、フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ(これってライクか、ライシュって読むんじゃないかと思っている)と合わせて、ライリーはミニマル四天王なんていわれた。他にもヨーロッパあたりでどんどん出てきたが、細かくなるからちょっと省く。まあウィム・メルテンくらいは書いておこう。というのは彼は「ミニマル・ミュージック」という本を書き、日本でも訳書がでたし、舞踏演出で有名なヤン・ファーブルとの仕事が随分話題になったからだ。あと、ヤングの門下生としては、あのヴェルヴェットのジョン・ケール、イーノと一緒に やったジョン・ハッセル、バンドでメルス・ニュージャズ・フェスティヴァルにも出たリス・チャタム、特異な音楽家であるアンガス・マクリゼもそうだ。まだまだいる。

ところでヤングは、ライリーと一緒に、パンディット・プラン・ナートというインドの古典音楽歌手からキラナという唱法を学んでいる。またグラスがミニマリズムを創案したのは、彼がラヴィ・シャンカールと一緒に仕事をしたことだという。そしてライヒはアフリカのヨルバ族という部族社会でドラミングを学んだことがある。ヤングは最初サックスを やったり、フルクサスの連中とイベント、ハプニング的なこともしていたが、安定した発信器による和音を創案し、それを永遠に流し続けるというとんでもないことを思いついた。これは彼の生存中はずっと続くし、死後も続いていくのである。

実際に彼に会ったパフォーマー、荒井真一(自他ともに認めるアル中)によれば、ずっと耳にイアホンをさし、その音を聴き続けているという。この持続イベントを「永遠音楽の 劇場」としているが、その持続音〜ドローンのなかで彼は独自の唱法を披露し、共演達は ひたすら楽器で同じ音を鳴らし続ける。これは一見簡単そうに思えるだろうが、やってみ ればいかに自己の制御が必要かわかる。ほとんど修行である(オメガポイントの井部氏は 「ラモンテ教」といっている)。

また、彼は独自の調律によるピアノを用いて数時間かかる演奏も行っているし、スワンズ のメンバーと組んで不思議なブルースロックもやっている。最近のアルバムはなんとグラ マヴィジョンから出ている。ジャーマンロックのファウストとの共演や、伝説的実験映画 「フリッカー」で知られるトニー・コンラッドは、「自分こそミニマル手法の元祖である 」と名乗り、ヤングを批判している。まあ彼らが一緒にやっていた事があるのは事実だ。

グラスは当初、自作曲をオルガン独奏していたが(この当時の録音は、パンディット・プラン・ナートや、ヤングのソロ、ライリーのソロと同じくフランスのシャンダールという レーベルから出ている。ここからはサン・ラ、アルバート・アイラー、セシル・テイラー も出ている)、彼自身の曲をやるためだけのアンサンブルを結成、強烈なインパクトのある、一切の妥協を許さない演奏を展開して、日本公演でも大評判だった。

このグループの演奏風景は、ピーター・グリーナウェイの映画「4アメリカン・コンポーザーズ」に収録されている(余談だが、他にジョン・ケージ、メレディス・モンク、ロバート・アシュレイが選ばれていて、興味深い作品である)。彼はまたロバート・ウィルソ ン演出のオペラ?「浜辺のアインシュタイン」の音楽、フランシス・フォード・コッポラも関わった映画「コヤニスカッティ」のサウンドトラック、デヴィッド・ボウイの曲をイ ーノとともにオーケストラで演奏する試み、エイフィックス・ツインとの共演など、今も活躍している。

ライヒは、街頭の説教師の声をサンプリングして、電子的なディレイをかけて変形させていくという手法(「イッツ・ゴナ・レイン」「カム・アウト」など)や、手拍子の為の音楽、小さな木片のための音楽などを作っていた。これはポリリズムやリズムをずらして行 く事で大きな変化をゆっくり作る方法のエチュードであった(私はこの当時の作品がとても好きだ)。彼は自分のアンサンブルを組織し、グラス同様に厳密な、そして長時間の持 続的な緩慢な変化を生み出す手法を開発して行った。それは次第に大きくなりオーケストラで行うところまで発展した。

ライリーはテープや電子的ディレイ装置を使ってポップス、ジャズをリミックスしたり(なんとチェット・ベイカーが素材である)、特殊な電子オルガンを用いた。その音律は純正調と呼ばれ、ディレイで繰り返されるパターンと、その時点での即興演奏が常に調和的に聞こえるように設定されている。シャンダールから出た「ペルシアン・サージェリー・ダーヴィシュ」という2枚組ソロ、そしてメジャーであるCBSから出た「レインボウ・イン・カーヴド・エア」は大ヒットした。

また、その一方で「インC」という作品があり、これもミニマリズムの典型として知られる。この曲は53個の短い楽譜からなり、複数の演奏者は自由に選んでそれを繰り返す。これが重ねられると全体としては複雑な網目を為すようなサウンドを生む。筆者はこれを中国の楽器だけでやったのを聴いたが異様であった。ザ・フーのヒット曲「無法の世界」のイントロは、LPにおける、その前の曲「ババ・オ・ライリー」の最後がそのまま繋がっている長めのオルガン・ソロだが、このタイトルからも知れるし、一聴、明らかにそのサウンドはライリーからの影響である。

こうしてみるとミニマル四天王には共通項がある。それは源泉からすれば民俗音楽からのヒント、方法的には電子的な音源、そして厳密なアンサンブルか、即興かという選択、さ らに影響としてはロック、テクノといったスタイルに再帰していく。それはミニマリズムの「繰り返し」という方法が、丁度70年代初頭から、ロック、ポップスにおいて、シンセサイザーとシーケンサーによるプログラミングとコンピュータの使用が、まさにミニマリ ズムのスタイルに合致したからだ。だからテクノポップといわれる流れにはミニマリズムの影響が見られる。ここで私がテクノポップというのは、現在言うテクノとはちょっと違う。クラフトヴェルク、YMOを例に 挙げればいいだろう。しかし、これらの流れが、後にはテクノに繋がって行く。

77年7月、奥多摩のコンサートの3日前、私は三鷹の友人、佐藤君のアパートに投宿した。そしてまず、都内のレコード店巡りをした。当時の池袋西武百貨店の12階、現代美術と現代音楽専門店「アールヴィヴァン」の店長、故芦川聡さんから良い情報を貰えた(作曲家、演奏家の芦川さんは、後に独立してレーベルを設立、またハロルド・バッドを招聘し た。それは大成功だったが、その直後に事故で他界された)。

奥多摩ライブに先立ち、芝のアメリカンセンターで、ライリーがレクチャーコンサートを やるという話だった。私と、京都から来たビデ君(後のウルトラ・ビデ)が一緒に、そのコンサートに行く事にした。アメリカンセンターというのは、アメリカ文化の諸相を日本にプロモートすべく設置されたものらしいが、そんなもの今更不要だろうと思うのは私だけではないだろう。我々は文化的には半分はアメリカの属国化されているのだ。まあ、アメリカのお上品な部分の為の施設ということなのだろうが(会場には灰野さんがいたのを 覚えている)。そんな場所でカウンターカルチャー的音楽家が演奏するということが時代の流れを感じた。

ライリーは「シュリ・キャメル・トリニティ」というタイトルで演奏をした。これは奥多摩でも同じタイトルだった。まああるセッティングをした即興であるということは前回も書いたけど。どんな音楽であるかを改めて書くのも申し訳ないが、例えば貴方が、ジャーマンロックのファンで、アシュラテンペル(後にアシュラ)のファンなら、そのギタリス ト、マヌエル・ゲッチングのソロ「インヴェンションズ・フォー・エレクリック・ギタ ー」を思い出せばいい。え、そっちの方がレア?ライリーのそういう考え方はインド音楽のラーガとそっくりだ。ライリーとの違いは、ラーガ演奏を規定する、その環境での外的な要素が多いという事だ。例えば時間帯や、季節 や、天候といった。つまりラーガは自然観に基づいているから、その推移に合わせて変え なければならない。ライリーは、あくまで西欧音楽の意識で、これは独立した曲である、という規定をしてしまっている。まあどっちでもいいといえばいいけれど。

さて、そんな話も交えてライリーはそんなに長くはない講演をし、そして1時間程度の演奏をした。こうして解説されてしまうと彼に対して持っていた、勝手な思い込みとしての神秘的なベールが剥ぎ取られてしまったのだ。例えばモーダル即興の中で、コルトレーンは激しく燃え上がった。ラヴィ・シャンカールに心酔していたコルトレーンだが、シャンカールが彼の演奏を聴いて「あんな演奏のどこに愛と平和があるのか」と非難したそうで ある。それでもスタイルを変える訳にはいかないだろう。

音量の変化のないオルガンで、ひたすら沈潜するライリーはどうだろうか。インド古典音楽ではリズム、それはターラとかガットとかいうのだが、それがまた複雑きわまりない。そんなややこしいものはライリーの音楽には無い。もしインド人が聴いたら「いつまでアーラープをやってるんだ?」と思うかもしれない。アーラープというのは「今日はこんな ラーガでやりますよ」という、いわばテーマの提示みたいな部分だ。それが終わって、タ ブラ・バヤという打楽器が入って来るといよいよラーガは展開して行く。しかし、インド音楽的にみればライリーのラーガは遂に最後迄始まらないとも言えるのである。

こうしたことが分かった以上、あとは演奏のセンスだけが問題だ。即興演奏家としてのラ イリーのセンスはどうなのだろう。それよりも彼は演奏家なのか、作曲家なのか。ミニマル系作曲家は自分で演奏する事が多いが、ユネスコ村の「メディア3」でも作曲家自身が演奏するシーンが多々あった。神秘的なイメージの音楽は理論と機材の関係に解消していった。残ったのは作曲家と演奏家の関係である。一見単純で、実はそうでもない。自分の楽想を現実の音響にするなら、作曲家が演奏することが一番望ましいと思うのは簡単だ。 しかし作曲という行為はそれで解決することはない。それについてはここでは触れないでおこう。

さて、別の問題。テリー・ライリーは、いち早く、ある種の大衆音楽=ポピュラーミュー ジックの構造を見切った。最近、彼の”You're No Good”という作品があると堀さんから教えられ、聴いた。まさに「大衆音楽の原理」をローテクでやってしまっている。彼は 、R&Bのレコードから録音したテープを、その繰り返し単位のループにして、延々と流す 。時にそれをちょっとだけ変える。それでいいのだ。これにもし歌や演奏がのれば、その ままポップスなのだ。おなじ事をフランスの作曲家ベルナール・パルメジアニが”JAZZEX” という作品でやっている。彼はなんとマザーズオブインヴェンションまで使っているが、 その曲は最もMOIのなかでも最も繰り返しの多い「キングコング」である。なるほど。 繰り返しの音楽、いかにもミニマル・ミュージックを言い表しているように聞こえる。

しかし、実はこうした大衆音楽の繰り返しと、ライリーらのミニマル音楽の繰り返しは「 違う」。ダンス音楽であり、「うた」 である大衆音楽と芸術音楽としてのミニマル音楽の「違い」について書いてお きたい。つまり前者の「繰り返し」は、ある曲のなかで延々と同じで、変化しないが、後者のそれは、実は最初から最後迄、常に変化していくものであるということ。だからミニマル音楽は「漸次変化する音楽」とも呼ばれる。 ブルーズでもゴスペルでもR&Bでも、ロックでも、ジャズでも、いや、世界中の大衆音楽 は、ほとんどが基本的にはダンス音楽なのだが、ダンスとは数に体を沿わせる事でもある 。ということは「数えるため」に、ある単位のリフレイン〜繰り返し〜を基盤にしなけれ ばならない。パフォーマーは、その繰り返しの上に、いかに「かっこ良く、受ける」動き や演奏や歌を乗せるかというだけの話なのだ。ダンス・ミュージック?そうだ。それでいいじゃないか。

しかしまた舞踊音楽というと勝手が違う(「舞い」と「踊り」は違うからだ。)。この問題はまたいつか語ろう。そしてライリーが手をつけなかったもう一つの大衆音楽の方向がある。それは旋律を伴った歌詞、歌詞と旋律の混成としての「うた」である。ライリーはその師ナートから「唱法」は学んだが「うた」は どうだったろうか。ホーミーは「唱法」だが「うた」ではない。勿論地元ではホーミーで 「うたう」歌手達はたくさんいるのだが。

「うた」とは何か。これは人間と音楽の根源的な関係に迫るテーマになる。そして大衆音楽がいつも「うた」と共に有ることだけは確かだろう。12音主義音楽が確立したこと、そして録音とその販売メディアが商業的に成立した事、これらによって私たちの音楽観は大きく変わってしまったようだ。それ以来、「うた」は私たちから少しずつ遠ざかって行き 始めたように思える。大衆音楽と芸術音楽、作曲と演奏、「うた」とダンス、繰り返しと 変化、そして音律、即興、といった具合に、ライリーから掘り返してきた音楽の根本的テーマは意外に多かったのだった。

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