2015年9月13日日曜日

ニューナンブ (12)   「みんなバカだった〜その1」

Text:Onnyk



<紙メディアの時代だった> 

2014年、「20世紀エディトリアル・オデッセイ〜時代を創った雑誌たち」という本が出た。赤田祐一と「ばるぼら」の共著で、誠文堂新光社からでたグラフィックの多いA4版の本です。かなりの内容があるけど¥2,500は安いと思う。この出版社は老舗雑誌『アイデア』をずっと出し続けて定評があります。本の内容は、インターネット普及以前の雑誌メディアを七〇年代あたりから、アメリカのアングラ雑誌(いまならサブカル)などを拾い上げ、さらに八十年代の日本で爆発的に増えたミニコミ系の総まくりをしています。さらにはビニ本や自販機本などで展開されたサブカル系情報のスタイルを見直すという大変貴重な記録です。第五列インタビューも収録しています。


ところでビニ本、自販機本といって若い人にはわかるのかな?あるいはわかったとしてもその雰囲気はわからないでしょうね。ビニ本というのはビニールで包んである写真雑誌で、中身は性器もろ見えの、それはそれは当時としては有り難い本だったのです。それらは自販機で販売されていたのが多かった。どうしてそれがサブカル系なのか。そういう雑誌は一冊単位で作ったものが殆どだったんですが、そのうちに月刊誌化していくものがでてきた。投稿写真なんかを載せる訳ですね。そしてさらにその内容が、単にエロ写真を載せるというだけでなく、まさにサブカルな話題、そして音楽批評、書評、映画評なども載せるようになってきた 。

どうしてそうなっていったか。まあ色々理由はあるんですけど、社会的な変化と関係する。70年代前半には学生運動がかなり下火になってしまった。連合赤軍の浅間山荘事件を境に、といっていいでしょう。そして新左翼と呼ばれていた活動家達は、もちろん武力闘争からは手を引き、なんとか食いつないでいくために多くの人が出版関係に入ってしまったんです。なにしろ皆、それなりの理論やら意見 を持ってるインテリだから、自分たちの主張をなんらかのメディアで出して行きたいという希望があった。かといって放送メディアは自主規制だのなんだのうるさい。また大手であれ中小であれ新聞社には誰もが入れる訳じゃないし、出版社だってそうだ。となると有象無象ひしめく怪しげな弱小出版社でも、とにかく入り込んで何らかの主張できる方法を見いださなきゃならん訳です。闘争はメディアの時代、文化戦略になったというべきか。 

そういう意味では、実は最大の成功を収めたのがパルコとか西武グループであると思うんです。70年代後半から80年代にかけて、渋谷がひとつの文化的中心地になっていった。新宿から渋谷へ、という感じですね。猫も杓子も、老若男女みな、渋谷、そして原宿を向いていた。それが学生運動のその後とどう関係するかについて書こうかなと思ったんだけど資料不足でやめた。私の任ではないしね。でも堤清二なんてちょっと調べれば、そのひとつの極だとわかるね。ブルジョワ革命を目指したエリートってと こです。

 <戦略としての自販機本> 

人の世はいつも風俗、エロス関係では確実に業界があり、需要は消える事は無い。新しいメディアができるとまずエロによって広まる、というのは中世から同じです。エドゥアルド・フックスの「風俗の歴史」なんてそれがよくわかる本です。浮世絵だろうが、写真だろうが、映画だろうが、ビデオだろうが、ポラロイドだろうが、インターネットだろうが。この本を読んで感じるというか分かるのは、ある時代の女性のファッションというのは、その前の時代の娼婦のファッションであるということですね。まあ、それは一つの例として。 

当初、弱小出版社でそういう本を作っていた旧活動家の人達が、新たなメディ アとしての自販機、そこで売られるビニ本の可能性に気付くのに時間はかからなかった。これぞ何かできるんじゃないかと眼をつけた。冒頭紹介した「20世紀エディトリアル・オデッセイ〜時代を創った雑誌たち」 は、勿論そういう流れを根底に、特にそこで有名になった雑誌も紹介している。それが例えば自販機雑誌「JAM」「クリス」「HEAVEN」だった訳です。

どんな人が書いていたか、ここで網羅することはできませんが、我々第五列関係者も書いていたのです。またガセネタのメンバーで、横浜国大の教授をして いた故大里俊晴さん、これも亡くなった一代のディレッタント小山博人さん 、A-Musikのリーダーで、先頃初めて評論集が出た竹田賢一さんも書いた。今 、音楽関係ばかり挙げたけど、もっと多様なジャンルの人達が書いていました 。 もっと知りたいという人はやはり「20世紀エディトリアル・オデッセイ〜時代を創った雑誌たち」を買うしかないでしょう。これは損しません。あまりの情報量に、私、まだ読み切ってないです(笑)。

さて、もう一人そういうライターを紹介したい。それは大阪在住の、現在も評論や紹介活動をしている坂口卓也さんです。ペンネームは科補とか、科伏。シナプスと読ませていました。生理学がご専門ですから(この人の提唱したノイ ズミュージック論は面白いです。まあ聴覚による脳内の変容とでも)。この人 は70年代の中期からLAFMSなどについて非常に詳しく紹介していた。え?LAFMSを知らない? でしょうねえ。ロサンゼルスフリーミュージックソサエティの略です。この集団の存在を知ったのは衝撃だった。



それが第五列を生んだ、とはいえません。後押ししてくれた感じです。第五列テープとか即興を始めてから知った訳で、「ああ、海の向こうにもこんなことしている奴らがいるんだ!」と喜びました。 どんなことをしていた集団か?一言でいって...と言えないのが彼らです。メチャクチャです。構成員がはっきりしなくて、関係者が皆個性的だ。まだ活動している人で言えば、バンドの「スメグマ」(意味知ってますか?)とか、 ジョー・ポッツ、フレドリック・ニールセン、あと変ったところでジョン・ダ ンカンとかね。ジョンはしばらく日本にいました。

彼らについてはおいおい書いて行きますが、次第に日本のマイナーなシーンとの関係が強くなって行き、向井千恵さんや灰野敬二さんなんかが、多重録音で共演なんていう盤も出ましたね。ふと思い出したのは、二十年程前にキャロライナーという、訳の分からん被り物を付けてライブするバンドが出て話題になったけど、あのバンドの演奏なん か聴いているとLAFMSを感じさせたね。どうなったんだろう。来日までしたのに。私は来日時のライブ映像もってますよ。被り物の覆面バンドというとレジデンツが有名ですが、実は最初期のLAFMSのコンピレーションには他の何処にも収録されていないレジデンツの曲が入って いる。しかし後にそのコンピが再発されたときには除外されていた。

まあ、実はLAFMSを初めて教えてくれて、レコードも貸してくれたのは竹田賢一さんだったのですけど。そのレビューはなんと、ジャズ雑誌「JAZZ (後にジャズマガジンに改名)」でした。この雑誌も面白くて、とにかく海外 のフリーミュージック、即興、前衛音楽の情報が多い。なにしろ故間章も書い ていたし、演歌のレビューまで載ってた。オーディオ関連の記事は無し(笑 )。 話を戻して、科伏、こと坂口氏はその後、関西中心のノイズ系雑誌にも書いたり、コンサート企画をしたりと活発で、モダーンミュージック発行の「Gモダーン」(刊行中止している)にも評論活動は続けていました。また、自分のサイト「音薬楼」を開設していますから、どうぞアクセスしてください。 

<第五列の演奏と活動の初期、いや最盛期?> 

で、実は私ONNYKの活動を世界に紹介してくださったのも坂口さんでした。 そういうことで今でも大変に恩義を感じている次第です。 まあ第五列テープというのを開始した時、別に即興演奏とかだけに特化しよう とは思ってなかった。周囲には高橋昭八郎さんのような詩人もいたし、シンセ や電子音でいろいろやってる人、自作曲を書いて歌う人、ロックのようなこと をしている人(ビデ君とか)、パフォーマンスをする人、美術系の人、まあ多種多様の方々から、音としての素材を提供してもらい、それを一本のカセットにするというのが最初の試みだった。いや、正確に言えばその先行として、第五列的面子が私の家で集まってごちゃごちゃ即興演奏をしたカセットを作ったのがあった。東京で、園田佐登志さん らがやっていたフリーミュージックスペース(FMS)に参加するためのデモテ ープを作ったのですね。


FMSのことは前に少し書いたけど、当時の東京の即興演奏集団、フリージャズ、ロックバンドなんかが参加していた。GAP(佐野清彦、曽我傑、多田正美)、火地風水、エラン・マレ、EVENT=ACCIDENT7711、灰野さんや竹田さんがやっていた当時のヴァイブ レーションソサエティとか、ガセネタ、突然段ボール、ヒカシューなんかも。 そういうのは録音もまだあります。 まあそういう凄い連中に対して、第五列は、まともに楽器できる奴はいなかったし、シンセがあっても使い方がわからない。ギターはあっても弦が切れている。打楽器なんて、ほんとに空き瓶、空き缶、段ボール箱を菜箸で叩くんですよ。ケージの「クレド・イン・アス」(空き缶を使って演奏する曲)なんか知 らなかったけどね。 そういう、ある意味貧しさのなかからこそ面白いのが出てくるのだなというのは後で分かったけどね。

いや、実際、第五列にしてもLAFMSにしても、何十年かの活動をまとめてリリースし、聞き直すと絶対昔のほうが面白い。まさにインパクトですね。 ちょっとつまらんことを書きますが、ジャンケレヴィッチという演奏家で哲学者がいる。この人の「イロニーの精神」という本にこんなことが書いてある。 「おとなは若者の意識である。…意識は超脱である」 これって逆にすれば「若者はおとなの無意識である…無意識は頑迷である」っ てなりませんかね。 いや、私は常々、思っていた。若者あるいは子供って頑なで、かつ自分の何事かやりたいことに対しての距離も無いし、時間もとらないし、粗雑で、準備不足で、見切り発車で、とにかく動機に対して純粋で、配慮なんてものが一切ない。要するにバカなんですよね。だから、後からその結果を自ら顧みると驚く 訳です。「なんで俺たちはこんなことができたんだろう」と。バカじゃなきゃできなようなことは沢山ある訳で。バカで、物がないことは最大に創造的な条件ではないでしょうか。

それから、楽器が無かったとは書いたけど、マイクとエフェクターとテープレコーダだけはあったんだな。だからいろんな実験をしたけど、一番使った素材は何かと考えると「声」なんですよ。結局最初に声があり、いつまでもそれは 驚くべき素材なんだ。でもその当時は楽器が欲しかった。なんでいきなりシンセサイザーなんかあったのだろう。知人から無理矢理借りて来たんですね。それがあるだけで全て可能なんじゃないかとか思ったのか。いや、そうじゃない、使ってみて「こりゃださい」と思ったことは多々ありま した。だから絶対にやってはいけないようなことばかりしていた。例えば出力から出した信号をエフェクターかけて、そのまま入力トリガーのところにいれてみたり。これは当然ある種のハウリングを起こす。ヘッドフォン端子から音をひろってみる。すごいおかしなループサウンドができる。これは機械にはよ くないでしょうね。負荷がかかりすぎて。貸してくれた人には黙ってましたけど。

あと、よく一緒に遊んだりしていた小玉君という奴が工学部にいて、機械系に強かった。そして、どうしてだか2トラックのオープンリールのテープレコーダを二台持っていた。それが分かったとき小躍りしましたね。つまりこれで、 イーノが「ディスクリート・ミュージック」で使った(自分で工夫した、という べきか。他にも佐藤允彦が使って、ピアノソロアルバム「多次元球面」を作っ た)非常に長いディレイの録音が可能になる訳です。つまり録音状態で作動させて、同じテレコの再生ヘッドでモニターすると、デ ィレイがかかる訳です。まあアナログテープディレイの原理。それを二台のテレコで録音用と再生用にうんと距離を置く。それは短くても1メートル以上。 すごく遅れて再生される。しかもその音もまた録音されて行く。すると何度も 最初に録音された音がぼやけていきながら遠くに去って行く、そして背景のようになっていくのです。

その録音から再生迄の距離をどんどん長くして行った。ついに部屋中テープを這わせて数メートルくらいのロングディレイを作った。どうやってテープのたるみを解消したか。それはビールなどの空き瓶の肩に引っ掛けたのです。だか ら使える瓶となで肩でダメなのがあった(笑)。空き瓶は叩いても吹いても音 が出るし、色々応用可能だった。ワイングラスをこすって鳴らす事もしていたから、後にグラスオーケストラを聴いたときも「なーんだ」と思ったね。 まあ、ディレイに話を戻して、これは実際にやってみるとなかなか大変だし、 ハウリングが強くなってくると音の津波みたいな感じになる。くぐもった音が どんどん積み重なって恐ろしいほどに。

そういう環境で即興をした録音は残っ ていて、「第五列」ボックスにも入ってる。これは、1979年、盛岡市内の(肉屋の三階)貸し画廊「北点画廊」で一週間ぶ っ続けにイベントや演奏をした「第五列週間」という企画の一部でした。芝居 の公開練習、シタールソロライブ、瞑想ワークショップ、作品展示など多様で した。参加者も盛岡、東京、京都などから、詩人らも十数人参加してくれた。 この企画についてもいつか説明したいですね。

 <「最初の楽器はテープレコーダー」(とはブライアンイーノの言なり)> 

その他、小玉君の制作した自主映画(8ミリですよ)のサウンドトラックを作った。安部公房の「赤い繭」が原作でした。第五列のブルトン(四次元怪獣で なく)ともいうべきアカナルムこと村中君が主人公です。そのサントラも第 五列テープに入れた。 この頃結構面白いと思ったのは要するに楽音以外でも色々に変容させ、テープ編集で構成して行くという、つまり「具体音楽=コンクリートミュージック、 ミュジックコンクレ」であり「テープ音楽」でした。 それにぴったりの教科書があった。「テープコンポジション入門」(テレンス ・ド・ワイヤー著、音楽之友社、原著は1971年)という本で、まあこれをまじめに演習したのではないが、方法論、技術として参考になった。

でもまじめに取り組むとこのテープ音楽というやつはおそろしく手間がかかる。相当に修練 と根気がいる。これは私には向いていないですね。で、最初は即興演奏ばかりしていたが、時代はマルチトラック録音を自宅でやれるようになってきた。1980年に入った頃ですね。TEACから4トラック録音 をカセットテープで出来るMTR(マルチトラックレコーダ)が発売されたので す。自室でテクノポップですよ。リズムマシンとシンセとマイクがあればOK。でもそんなのやりたく無かったですね。 

当時、即興演奏以外で私の心をとらえていたのは、イーノの初期のソロ三枚 (「ヒアカムザウォームジェッツ」「テイキングタイガーマウンテン」「アナザーグリーンワールド」)と彼がプロデュースしたオブスキュアレコードのシ リーズ10枚全て。それから当時話題になって来たスロッビンググリッスル、キ ャバレーヴォルテール、ディスヒート、ポップグループ、クローム、そしてジ ャーマンロックのファウスト、カン、ノイといったあたりでした。そういうの をやりたいと思ってはいた。ノイは好きだったなあ。 

しかし一緒にやる仲間は居なかった。即興演奏を一緒にやった連中は、そういう音響体験には関心があっても、持続的にバンドやロック的なことをやるという関心がなかった。私は実験的な音響をロックに投入したかった。上述のバン ドってみなそうでしょ。仕方ない一人でやるさ。 私は、第五列テープを配布コピーするために(最近ネット上で売られていてびっくりした)、安物のカセットデッキを二台持っていました。二台で一台分も しないようなやつです。オープンリールのは中古だって高いし、スペースはな いし、メンテは大変だし、テープも扱いが面倒だ。カセットならそういう面では都合がいいのです。 反面、カセットはカートリッジの中にテープがあるから直接いじくれない。切って貼るなんていうのも不可能じゃないが、オープンテープに比べて大変です。

ところが次第に周囲にはカセットを色々操作する人が出てきました。ループにしたり、イーノ式ロングディレイをカセットで作ったり、まあ思いついたら 出来ちゃうもんですね。鈴木健雄君はそういう意味で素晴らしい技術を持って いる。最近もその技で演奏してみせてくれました。しかも彼はいわゆる「ウォークマン」タイプの小型化セットテレコでやっちゃうんですよ。ついでに言えばホーミーも名人ですし、チャンゴ(杖鼓)もやります。そんな彼がいろいろ な方法で演奏した成果が第五列テープにはソロアルバムとしてのこっています 。 MTRなんか無くても、デッキが二台あればピンポン方式で多重録音はできる。

まずリズムは、かなりエフェクトをかけて歪ませ、同時にエレキギターの弦を緩めてベース代わりにして(ベースギターが無かったから)、一緒にラインで 録音する。そのカセットをかけながら、ギターのパートやサックスを、これま たエフェクターをかけながら一緒に録音する。ラインでとることもあったし、 マイクを使う事もあった。そうしてどんどん重ねていく。当然最初のほうに録音したのは不明瞭になっていくんだけど、それが妙に深みというか遠近感を生 じたりする。ある程度演奏を重ねたテープの音にエフェクターをかけながら変形させていくなんてこともやった。

使っている楽器もエフェクターも殆ど借り物です。どうせどれもちゃんと弾けない。まあそういう意味では気前よく色々貸してくれる友人に恵まれた事、親の家に住み、自室があったので、気兼ねなく夜中迄録音を続ける事が出来るというの も幸運だった。スタジオで録音なんて考えられなかった。ようやくバンド練習 用貸しスタジオがぼつぼつ出来始めた時代でした。

<第五列ビッグバン!> 

その頃大阪中心に影響力のあったアンダーグラウンドな音楽雑誌が「ロックマガジン」。阿木譲が編集長でした。後にガセネタやタコで名を馳せる山崎春美も書いていた。東京では北村昌士が「フールズメイト」を編集し多くの読者を獲得し始めた(元はといえば、英国のバンドVDGGのファンジンだったという のを知ってるかな?雑誌名はLPのタイトルからなんですよ)。北村は後にバン ドのYBO2で人気を集めた。盛岡にも単身来てライブをしたが、その直後死去 。

 「ZOO」「DOLL」「チェンジ2000」(これはゼルダの小嶋さちほの編集)なんてマイナーなロック雑誌も知られて来た。これらはほんの一部ですよ。だから例の本を買ってみてください、興味ある人は。大阪の「ロックマガジン」は日本の、パンク以降の新しい音楽を集めてコンピレーションアルバムを作る事を計画したという噂を聴きました。なにしろ手元に雑誌が無いからわからない。関西は遠かった。 

その頃、丁度、自販機本に何か書かないかという依頼が来ました。それは竹田 賢一さんを介して雑誌「クリス」から第五列に依頼があったのです。編集して いたのは、現在もパフォーマンス活動などしているアラシンこと荒井真一さんでした。そして私やゲソ藤本が音楽、パフォーマンスなどのことを偉そうに書いてみた。嬉しかったんですね。 竹田さんのやっていた「同時代音楽」という雑誌からも依頼が来ました。これ また喜んで、当時の第五列関係者がこぞって2ページをメチャクチャなレイア ウトで埋めた。

これは今のパソコンではちょっとできないだろうな。直接、写植(わかりますか?写真植字です)を貼り込んだ版下、つまり印刷原稿を作っ たんです。イラストも貼りこみ。今じゃ漫画もネームはコンピュータだからなあ。いずれ手作業でやった。これは後のピナコテカレコードにも通じる事ですけど。(「同時代音楽」という特異な雑誌のこともいずれ書かなきゃならんだろうな。元はブロンズ社の「音楽全書」という雑誌だったんですけど) さて、ようやくピナコテカのことが出て来た。けどちょっと戻る。

というのは私が即興演奏ではなく作ったロック的な音楽を、どういう風に広げて行こうか と考え始めたのです。これは即興演奏を解する耳の領域ではない、と思い込んでいた。つまりこれはオルタナティブミュージックであり、インダストリアル ミュージックではないかと。このインダストリアルってのは今でも時々使われたりするけど、実はスロッ ビングの連中、おそらくその総帥、ジェネシスポリッジが言い出したのだと思 う。オルタナティブは、要するに「それまでの音楽とは違う構造、意図、音響 をもった」という意味で解され、インダストリアルは、そのままなら工業的なんだけど、ちょっと違う。それはジェネシス的に言えば「死を生産する産業構造」という感じなんだろう。

だから彼らのレーベル、インダストリアルレコードのCIは、アウシュヴィッツの焼却炉の写真を粗くしたものです。まあこの話に踏み込むと大変なのできりあげます。で、私は自作のロックまがいをコピーして何人かに送った。ゲソ藤本はすぐ興味をもってくれた。それから吉祥寺の魔窟マイナーの佐藤隆史さんも。佐藤さんは電話で「実はもうマイナーを切り上げようと思ってる。そしてレコード会 社を作るつもりだ。もし良かったら君の作品もそのシリーズに入れてくれないか」という。私は大喜びでした。またつきあいのあったJOJO広重君にも送った。そして彼は、坂口卓也さんにも聴かせるべきだといい、「ロックマガジン 」がコンピレーションを計画していることも教えてくれたのだと思う。 



私は自販機雑誌JAMで坂口氏がいろいろな音楽をレビューしていたのを読んでいたから、すぐ送った。しばらくして彼から「日本の新しい音楽を幾つかまとめて海外に紹介しているから是非許可してください」と返信があり、その当時 彼の手元にあった内外の、まだ無名なそして面白いバンドや個人のカセットを送ってくれた。 そうして坂口氏が広めてくれた後にすぐ反応してきたのは、フランスのPTOSE PRODUCTIONだった。彼らはバンド名としてはPPPだが、レーベルとしては 国際的なコンピレーションカセットの販売を計画しており、私の作品を入れたいといってきた。

これはASSENBREE GENERALEという国際的コンピレーションカセットの第一回作品に1曲収録されてリリースされた。このとき初めて ANODE/CATHODEを名乗った。ところが、ある日ロックマガジン編集部を名乗る女性から自宅に電話があり、 貴方の曲を使いたいという。私はどの曲がどう使われるか教えてくれと言った 。先方は了解したようだった。が、結局向こうからの連絡はその一回だけ。どうなってんのかなあと思ったが、ある日「君の名前が間違ったままで、演奏が ロックマガジンの出したコンピレーションに入ってたよ」と言われたんですよ。びっくりした。だって出来た事も知らないし、普通そういうのは参加者にひ とつは寄越すじゃないですか。私は手紙を書いたけど何の返信もなかったです ね。それは確か「MUSICS」とかいうレコードで、宣伝もちらっと見て「ああ 、名前間違ってるなあ」と思ったけど未だに手にした事は無いです。しかもどうやら、PTOSEのコンピレーションと同じ曲を選んじゃったらしい。人に聴いた話ですけど。全くいい加減ですよね。(続く)

ニューナンブの筆者、nnykが10月に来日するスイスの即興グループ、Day&Taxiと共演します。

スケジュールは以下の通り。

10/25 盛岡 LIVECAFE 385
10/28 千葉 JAZZ SPOT CANDY
10/29 横浜 エアジン

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